人物

謝安

Xie An
AD320年 – AD385年(享年65・推定)
東晋重要度 3

概要

40歳まで会稽の山で王羲之と遊び、出仕して桓温の簒奪を引き延ばし、淝水で甥の謝玄に8万で87万を退けさせた。勝報が来ても碁を打ち続け、客が帰ってから下駄の歯を折った。「東山再起」の東山は彼の山。

関わったできごと(1)

淝水の戦いAD383年 · 東晋の総指揮

本文

謝安は、東晋の宰相である。字は安石。40歳まで官に就かず、山で遊んで暮らしたのち、朝廷に出て簒奪をうかがう実力者を押しとどめ、北方の前秦の大軍を淝水の戦いで退ける体制を整えた。何が起きても顔色を変えない落ち着きは、中国の士大夫の理想とされ、一度退いた人が再び世に出ることを指す「東山再起」の東山は、彼が隠れ住んだ山の名である。

晋太保建昌公謝安
晋太保建昌公謝安Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

320年、陳郡陽夏(いまの河南省)の謝氏に生まれた。謝氏は北から江南へ逃れてきた貴族の一つで、のちに琅邪の王氏と並んで「王謝」と称される名門になる。謝安は幼いころから評判が高く、4歳のときに名士の桓彝が、その風采の澄みきった様子をほめたという。宰相の王導も彼に目をかけた。

だが謝安は、朝廷から何度呼ばれても出仕しなかった。会稽(いまの浙江省紹興)の東山に住み、書家の王羲之、僧の支遁、詩人の許詢らと山水に遊び、文を作り、妓女を連れて山に出かけた。353年、王羲之が会稽の蘭亭に名士を集めて詩を作った集まりにも、謝安は加わっている(蘭亭序)。世の人々は「安石が出てこなければ、天下の民をどうするのか」と言い合った。それほど期待されながら、彼は動かなかった。

蘭亭序に関わる図版:Lanting rubbing1
蘭亭序Wikimedia Commons Public domain

転機は一族の危機だった。359年、弟の謝万が北伐で大敗して庶民の身分に落とされ、謝家の地位が危うくなった。翌360年ごろ、40歳になった謝安はついに山を下り、当時の最大の実力者桓温の幕府に司馬として入った。桓温は彼を迎えて大いに喜んだという。

桓温は北伐で名を上げ(桓温の北伐)、皇帝を廃して別の皇族を立てるほどの力を持ち、自ら帝位をうかがっていた。373年、桓温は大軍を率いて都建康の近くの新亭に来て、朝廷の重臣だった謝安と王坦之を呼びつけた。二人を殺すつもりだと噂された。王坦之は汗を流し、手にした笏を逆さに持つほど震えていたが、謝安は落ち着いて席に着き、桓温に言った。「諸侯が道を守っていれば、守りは四方の隣国に置くものだと聞きます。明公はなぜ壁の後ろに兵を潜ませておられるのか」。桓温は笑って兵を下げさせた。この一件で、二人の器の違いが知れ渡ったという。

謝安の像(福建省漳州)
謝安の像(福建省漳州)Wikimedia Commons GnuDoyng · Public domain

桓温は帝位の前段階として、皇帝から特別の礼遇である九錫を受けようとした。謝安は、その詔書の文案を書かせた文人の袁宏に何度も書き直しを命じ、ここが良くない、あそこが良くないと時間を稼いだ。そうしているうちに、桓温は同じ373年に病で死んだ。謝安はその後、宰相として朝廷を率いた。桓温の一族を追い詰めることはせず、桓温の弟の桓沖に長江中流の荊州を任せて、桓氏と謝氏が西と中央を分け合う形で国内を落ち着かせた。

そのころ北方では、氐族の苻堅の前秦が華北を統一し(前秦の華北統一)、江南へ迫っていた。377年、謝安は周囲の反対を押し切って、甥の謝玄を長江下流の守りの将に推した。謝玄は北から逃れてきた流民の中から勇猛な者を集めて精鋭の軍を作った。拠点の京口が都の北にあったことから「北府兵」と呼ばれ、その中には劉牢之のような将がいた。

謝安の肖像(郭詡画、16世紀)
謝安の肖像(郭詡画、16世紀)Wikimedia Commons Guo Xu · Public domain

383年、苻堅は自ら大軍を率いて南下した。その数を史書は87万と伝える。東晋の前線の兵はおよそ8万だった。不安になった謝玄が策を尋ねると、謝安は平然と、別に考えがあると答えたきり黙った。謝玄が人をやって重ねて尋ねさせると、謝安は山の別荘に出かけて親族や友人を集め、謝玄と別荘を賭けて碁を打った。ふだんは謝玄のほうが強かったが、この日は心が乱れて負けた。結局、晋軍は淝水で前秦の大軍を破った。秦軍は一部が退いたのを敗走と見誤って総崩れになったとされる。

勝利の知らせが届いたとき、謝安は客と碁を打っていた。手紙を読むと、黙って脇に置き、何事もなかったように碁を続けた。客が何の知らせかと尋ねると、「子どもたちが、どうやら賊を破ったようだ」とだけ答えた。だが客が帰ったあと、奥へ戻ろうとして敷居をまたいだとき、下駄の歯が当たって折れたのにも気づかなかった、と史書は書く。喜びを顔に出さない態度を貫いたが、本心は隠しきれなかったという逸話で、『晋書』も『世説新語』もこの話を伝えている。

勝利の後、謝安の立場はかえって難しくなった。功があまりに大きく、皇帝の弟の会稽王司馬道子が彼を疎んじた。謝安の娘婿でありながら人柄を嫌われていた王国宝が、司馬道子に取り入って謝安を中傷した。謝安は385年、北伐を名目に都を離れて広陵に出たが、まもなく病にかかって建康に戻り、その年の8月に死んだ。66歳だった。彼はいつか海路で東山へ帰るつもりで支度をしていたが、その志を遂げられなかったことを悔やんだという。

謝安の死から3年後に謝玄も死に、北府兵は劉牢之、さらにその部下だった劉裕の手に移った。劉裕はこの軍を率いて反乱を鎮め、北伐で名を上げ、420年に東晋を倒して宋を建てた(劉裕の宋建国)。謝安が東晋を守るために作らせた軍が、35年後に東晋を終わらせたことになる。謝玄の孫の謝霊運は、山水詩の祖とされる詩人になった。

後世、謝安は、ふだんは世俗を離れて風流に生き、国の危機には進んで出て大事を成し、成し遂げても誇らない人物として、文人たちの憧れになった。唐の李白は、東山の謝安石を用いれば、談笑のうちに北の砂塵を鎮めてみせると詠んでいる。自分を謝安になぞらえたこの詩人は、ついにそうした機会を得なかった。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD320年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →