後周世宗の廃仏
概要
五代の最後の皇帝が、寺2694を残して3万あまりを廃し、銅の仏像を溶かして銭にした。「仏は身を捨てて人を救う。銅の像が惜しいはずがない」。三武一宗の最後。世宗は北へ南へ攻めて、39歳で急死した。7歳の子が残り、翌年、趙匡胤が。
場所
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省
関わった人(1)
柴栄(後周世宗)AD921年–AD959年 · 皇帝本文
唐が滅びた後の華北では、わずか半世紀のあいだに五つの王朝が入れ替わった(五代十国)。後周はその最後の王朝で、954年、建国者郭威の養子だった柴栄(後周世宗)が位を継いだ。即位してすぐ、北漢と契丹(遼)の建国の連合軍を高平で破り、このとき逃げ出した将校70人余りを斬って軍の規律を引き締めた。彼は、分裂した天下を再び一つにまとめることを、はっきりと目標に掲げた皇帝だった。
そのためには金と人が要る。ところが当時の華北は、銅銭が慢性的に足りなかった。戦乱で鋳造が滞ったうえ、人々は銅銭を溶かして器や仏像にした。一方で寺院は増え続け、出家すれば税や労役を逃れられるため、僧になる者が後を絶たなかった。955年、世宗は寺院の整理に乗り出す。朝廷が名を与えた寺だけを残し、それ以外は廃する。出家するには親の許しを要し、男は15歳以上で経を百枚、女は13歳以上で七十枚読めることを条件とする。身を焼く、指を切るといった、人目を引く捨身の行は禁じる。さらに同じ年、民間の銅の仏像や器を50日以内に役所へ差し出させ、溶かして銭に鋳ることを命じた。

この年の終わりに数えると、残った寺院は2694、廃された寺院は3万336、籍に登録された僧と尼は6万1200人だったと『資治通鑑』は記す。廃された寺の多くは、朝廷の許しを得ずに建てられた小さな寺や庵だったとみられる。仏像を溶かすことに反対する声に対し、世宗はこう答えたという。仏は自分の身を仮のものとし、人のためになることを何より急いだ。たとえ仏の真身がここにあっても、世のためになるなら、身を切り分けることさえ惜しまないだろう。まして銅の像を惜しむはずがない。
宋の時代になると、この廃仏をめぐって伝説が生まれた。鎮州の大悲寺には誰も壊せない銅の観音像があり、世宗は自ら斧をとってその胸を打った。のちに世宗が胸の腫れ物で死んだのは、その報いだった、という話である。同時代の記録には見えず、後の時代に作られた話とされる。鋳られた銭は「周元通宝」と呼ばれ、仏像の銅で作った銭として、後世には病を治すお守りとして珍重されたとも伝わる。
中国の歴史では、皇帝が仏教を弾圧した事件を四つ数えて「三武一宗の法難」と呼ぶ。北魏の太武帝(太武帝の廃仏)、北周の武帝(北周の廃仏)、唐の武宗(会昌の廃仏)、そして後周の世宗である。世宗のものはその最後にあたる。ただ、ほかの三つが道教との対立や仏教そのものの否定を伴い、僧を大量に還俗させたのに比べると、世宗の整理は、国の財政と兵役のために寺と僧の数を絞ることに目的が限られ、仏教の教えを否定するものではなかった。登録された僧尼は残り、許しを得た寺は守られた。

世宗は得た力で四方に兵を出した。955年には後蜀から西の四州を奪い、956年から958年にかけて南唐を攻めて、長江より北の淮南の14州を手に入れた。南唐の君主は皇帝の号を捨てて臣下の礼をとった。959年には北へ向かい、遼から瀛州・莫州などと三つの関所を取り戻した。かつて後晋が遼に差し出した燕雲十六州の一部である。世宗は、十年で天下を切り開き、十年で民を養い、十年で太平をもたらしたい、と語ったと伝えられる。
だが幽州(いまの北京)へ進もうとしたところで病に倒れ、開封に戻って959年6月に死んだ。39歳(数え年)、在位は5年半だった。後を継いだ柴宗訓は7歳である。翌960年の正月、北の守りに出た禁軍の長、殿前都点検の趙匡胤(宋の太祖)が、陳橋で部下に皇帝の衣を着せられて都に引き返し、位を譲り受けた(宋の成立)。趙匡胤は世宗の下で頭角を現した武将であり、宋が引き継いだ軍と領土と財政の土台は、世宗が築いたものだった。
宋は柴氏の一族を手厚く扱った。太祖が柴氏の子孫は罪があっても殺すなという誓いを石に刻んで残した、という話も伝わるが、その真偽には疑問が出されている。小説『水滸伝』で梁山泊の好漢を支える大旦那の柴進は、世宗の子孫という設定である。宋は廃仏を行わず、出家の許可証を売って財源にした。銭の不足は宋の代にも続き、大量に鋳られた宋の銅銭は、海を越えて日本でも使われることになる。