サルフの戦い

概要
明の大軍を四つに分けて進ませ、ヌルハチが各個に破った。明が満洲を守れないと分かり、25年後に北京が落ちる。
場所
41.80°N 124.30°E · 中国・遼寧省撫順市付近
関わった人(1)
ヌルハチAD1559年–AD1626年 · 総指揮本文
16世紀の終わり、明の北東の端、いまの中国東北部には、女真(のちの満洲)と呼ばれる人々が住んでいた。狩りや農耕をし、明に朝貢し、薬用人参や毛皮を売って暮らしていた。明は女真の諸部族を互いに争わせ、一つにまとまらないように治めていた。
その女真の部族を一つずつ従えていったのが、ヌルハチである。祖父と父は、明の軍の争いに巻き込まれて殺されていた。ヌルハチは若いころから明に従うふりをしながら力を蓄え、30年あまりかけて周りの部族を統一した。兵と民を八つの旗の色で分けて組織する八旗の制度を作り、1616年にはハンの位に就いて、国を金(後金)と名付けた。1368年に始まった明(明の成立)は、すでに250年を経ていた。その国力は、ちょうど朝鮮への援軍で大きな出費をした後だった(文禄・慶長の役)。

1618年、ヌルハチは明に対する七つの恨みを掲げて兵を挙げた。祖父と父を殺されたこと、明が対立する部族に肩入れしたことなどである。ヌルハチは明の町、撫順を攻め落とした。
明の朝廷は、大軍を送って一気に片づけようとした。総指揮を任された楊鎬は、兵を四つに分け、東西南北の四つの道から同時にヌルハチの本拠ヘトゥアラへ進ませる策をとった。四方から包み込めば、逃げ場は無い。明は47万の大軍と号したが、実際の兵は10万前後だったとされ、そこに朝鮮の援軍1万あまりが加わった。迎えるヌルハチの兵は6万ほどだった。八旗の兵は、ふだんは狩りや農耕をしながら旗ごとにまとまって暮らし、戦になればそのまま部隊として動いた。騎馬に長け、命令がすみずみまで届く軍だった。一方の明の四軍は、互いに数十キロから百キロ以上も離れた山道を進み、連絡を取り合う手立てに乏しかった。

1619年の春、西の道を進んだ杜松の軍が、ほかの三軍より先に進み、渾河を渡った。ヌルハチは、ほかの軍には少しの兵だけを向け、八旗の主力をまずこの一軍にぶつけた。お前たちが幾つの道から来ようと、我は一つの道を行くだけだ、とヌルハチは言ったと伝えられる。サルフの山のあたりで、杜松の軍は崩れ、杜松は戦死した。
ヌルハチはすぐに兵を返して北の馬林の軍を破り、続いて東から来た劉綎の軍を山あいで討った。劉綎も戦死し、ともに進んでいた朝鮮の軍は降伏した。朝鮮の国王光海君は、明への恩と後金の強さとのあいだで迷い、将軍に戦況を見て動くよう密かに命じていたとも伝えられる。五日ほどのあいだに、明の四つの軍のうち三つが壊滅した。南の道の軍は、敗報を聞いて退いた。分けて進んだ大軍が、まとまって動く小さな軍に一つずつ破られたのである。指揮をとった楊鎬は罪に問われて獄に下り、のちに処刑された。

この戦いで、明が満洲を守り切れないことがはっきりした。その後、後金は北の開原や鉄嶺を取り、1621年には遼東の中心である瀋陽と遼陽を奪った。ヌルハチは都を瀋陽に移した。攻める側と守る側は、ここで入れ替わった。
明は、北京への入口にあたる山海関の手前に防衛線を築き、そこに兵と金を注ぎ込んだ。1626年、明の将軍袁崇煥は寧遠の城で、西洋式の大砲を使ってヌルハチの攻撃を退けた。ヌルハチはその年のうちに死んだ。後を継いだ子のホンタイジは、1636年に国の名を清と改めた。

遼東の防衛の費用をまかなうため、明は農民に重い税をかけた。そこへ飢饉が重なり、各地で農民の反乱が起きた。1644年、反乱軍の李自成が北京を落とし、明の最後の皇帝は自ら命を絶った。山海関を守っていた明の将軍呉三桂は清に降り、清の軍は関を越えて北京に入った(清の中国支配)。サルフの戦いから25年後のことである。