人物

光武帝

Emperor Guangwu
BC5年 – AD57年(享年61・推定)
後漢重要度 4

概要

劉氏の血を引く一豪族から、乱世を収めて漢を再興した。都を洛陽に置く。

関わったできごと(2)

赤眉と緑林の乱AD23年 · 昆陽で勝った後漢の成立AD25年 · 当人

本文

光武帝、名は劉秀。紀元前5年、漢の皇族の遠い末裔として生まれた。前漢の景帝の子の家系だが、何代も下るうちに位は下がり、父は県の長官にすぎなかった。9歳で父を亡くし、叔父のもとで育った。故郷は南陽郡、いまの河南省の南部である。兄の劉縯は豪快で客を好んだが、劉秀は田畑の仕事に精を出し、兄にからかわれるほどだった。若い頃に都の長安へ出て、儒学の経書『尚書』を学んでいる。役人になるなら都の警備の長官、妻をめとるなら陰麗華、と語ったという話が伝わる。陰麗華は郷里の名家の娘で、のちに本当に彼の皇后になった。

光武帝(劉秀)の肖像
光武帝(劉秀)の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

劉秀が生きたのは、前漢の外戚だった王莽が帝位を奪い、新という王朝を建てた時代である(王莽が新を建てる)。王莽は古代の理想に倣った改革を次々に行ったが、貨幣制度の改変や土地の国有化は社会を混乱させ、黄河の氾濫と飢饉が重なって各地で反乱が起きた(赤眉と緑林の乱)。紀元22年、劉縯と劉秀の兄弟も郷里で兵を挙げ、緑林と呼ばれる反乱軍と手を組んだ。反乱軍は皇族の劉玄を皇帝に立てた。更始帝である。

翌23年、王莽は大軍を送って反乱軍を潰そうとした。数十万といわれる軍が、昆陽の小さな城を包囲した。劉秀はわずかな兵を連れて城を抜け出し、援軍を集めて戻ると、決死の兵を率いて敵の本陣を突いた。そこへ激しい雷雨が重なり、王莽の大軍は総崩れになった。昆陽の戦いと呼ばれる。この勝利で王莽の命運は尽き、その年のうちに長安は陥落して王莽は殺された。

明代の『三才図会』に描かれる光武帝
明代の『三才図会』に描かれる光武帝Wikimedia Commons Sancai Tuhui · Public domain

ところが、兄の劉縯は人望を集めすぎたために、更始帝に疑われて殺された。劉秀は兄の死を嘆く様子を見せず、都へ出向いて更始帝に謝罪し、自分の手柄も口にしなかった。夜にはひそかに泣いていたという。やがて更始帝は彼を黄河の北の平定に送り出した。劉秀はそこで地元の豪族を味方につけ、反乱軍を降して自軍に組み入れた。降した者たちを疑わず、軽装で彼らの陣中を見て回ったので、彼らは心服したと伝えられる。

紀元25年、劉秀は河北で皇帝の位に就き、漢を再興した。後漢の始まりである(後漢の成立)。都は長安ではなく、東の洛陽に置いた。その後も各地には自ら皇帝を名乗る勢力が残っていた。赤眉の軍を降し、西の隴西を平定し、最後に蜀で自立していた公孫述を36年に滅ぼして、ようやく天下は一つになった。隴を得てまた蜀を望む、という言葉は、このとき光武帝が部下に送った手紙から来ている。人の欲には限りが無い、という意味で今も使われる。

唐代の『歴代帝王図巻』に描かれる光武帝
唐代の『歴代帝王図巻』に描かれる光武帝Wikimedia Commons Yan Li-pen · Public domain

即位した後の光武帝の方針は、徹底して抑制的だった。長い戦乱で人口は大きく減り、国は疲れ切っていた。功臣たちには爵位と領地を与えたが、政治の要職からは遠ざけ、儒学に通じた文官に実務を任せた。そのおかげで、光武帝の功臣のうち粛清された者はいない。前漢の劉邦が韓信らを次々に殺したのとは対照的である。功臣たちは雲台二十八将として後世に名を残した。

対外的にも無理をしなかった。北方の匈奴が南北に割れると(匈奴の南北分裂)、南の匈奴を服属させて辺境の守りに使った。西域の諸国が漢の保護を求めて使節を送ってきたときには、国内の安定が先だとして、都護を置くことを断った。南の交阯で起きた徴姉妹の蜂起には将軍の馬援を送って鎮圧している(徴姉妹の蜂起)。また、戦乱の中で奴婢に落とされた人々を解放する命令を何度も出した。

戦車と騎兵を描いた打虎亭漢墓の壁画(鄭州)
戦車と騎兵を描いた打虎亭漢墓の壁画(鄭州)Wikimedia Commons Ancient Chinese artists of the late Eastern Han period · Public domain

一方で、光武帝は豪族に支えられて立った皇帝だった。紀元39年、全国の田地と戸口を調べ直そうとしたが、豪族の土地の過少な申告を地方官がかばい、各地で反発が起きた。光武帝は担当の役人を処罰したものの、豪族の大土地所有そのものには踏み込めなかった。この構造は後漢を通じて残り、2世紀末には地方の豪族や軍閥が割拠して、王朝が崩れていく下地になる。

晩年の紀元57年、東方の倭の奴国から使者が来て、光武帝は印綬を与えたと『後漢書』は記している。江戸時代に福岡県の志賀島で見つかった「漢委奴国王」の金印が、このとき与えられたものとされる。その年、光武帝は洛陽で死んだ。数え年で62歳だった。遺言で、葬儀を簡素にし、地方の役人が持ち場を離れて弔問に来ることを禁じた。

動画(1)

034 後漢の成立・漢の社会と文化 世界史20話プロジェクト第05話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第34講「後漢の成立・漢の社会と文化」
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