鄭和の南海遠征
概要
七度の航海で数百隻の船団がアフリカ東岸まで達した。植民も征服もせず、朝貢の関係を結んで帰る。だが事業は打ち切られ、記録の多くも失われた。海は他者に委ねられる。
場所
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省
関わった人(2)
鄭和AD1371年–AD1433年頃 · 総指揮永楽帝AD1360年–AD1424年 · 命じた本文
1405年から1433年まで、明の宦官鄭和の率いる大船団が七度にわたって南の海へ出た。東南アジア、インド、ペルシア湾、アラビア半島、そしてアフリカ東岸まで達している。大型の宝船だけで60隻あまり、随伴の船を含めると200隻を超えたともいわれ、乗員は毎回2万7千人ほどだったと記録されている。ヨーロッパの船がアフリカの西岸をそろそろと南へ下っていた頃、インド洋にはこれほどの船団が行き来していた。
鄭和は、雲南のイスラム教徒の家に生まれた。本の姓は馬で、祖父と父はメッカへの巡礼を果たした人だったと、父の墓碑に記されている。1381年、明の軍が雲南を攻めたとき、まだ10歳ほどの少年だった彼は捕らえられ、去勢されて宦官となり、北京にいた燕王朱棣に仕えた。朱棣が甥の皇帝から帝位を奪った内戦で手柄を立て、鄭という姓を与えられる。その朱棣が永楽帝である。

航海を命じた理由は、いくつか挙げられる。第一は、新しい皇帝の威光を海の向こうの国々に示し、使節を送らせ、貢ぎ物を持ってこさせることだった。永楽帝は帝位を力で奪ったため、天下に認められた天子であることを示す必要があった。明の正史には、行方知れずになった前の皇帝が海外へ逃げたのではないかと疑い、その行方を探させたのだとする話も載るが、確かめようはない。いずれにせよ、明の朝廷は民間の海外貿易を禁じており、海の向こうとの交易は朝貢という形でだけ認めていた。国が自ら船団を出すことは、その仕組みを大きく動かす試みでもあった。
船団の中心は「宝船」と呼ばれる大型船だった。明の正史は、最大のものを長さ44丈、幅18丈と記す。そのまま換算すると長さ120メートルを超え、コロンブスの旗艦サンタ・マリア号の5倍ほどになる。だが、木造の帆船でそれほどの大きさが本当に造れたのか、造れたとして航海に耐えたのかは、研究者のあいだで議論がある。実際にはもっと小さかったとする見方も多い。南京の造船所の跡からは、長さ11メートルを超える巨大な舵の軸が見つかっており、大きな船が造られていたことは確かである。

1405年の第1回の航海では、チャンパ、ジャワ、スマトラを経てインド南西岸のカリカットまで行った。その後の航海でセイロン、ホルムズ、アデンへと足を伸ばし、分かれた船団はアフリカ東岸のモガディシュやマリンディにまで達した。季節風に乗って往き、風の変わるのを待って帰る。インド洋の商人たちが何百年も使ってきた航路を、巨大な船団でたどったのである。
やったことは、朝貢の関係を結び、贈り物を交わし、帰ることだった。船には絹や陶磁器が積まれ、各地の王に明の皇帝からの贈り物として渡された。帰りの船には、各地の使節と、香料や宝石、珍しい動物が乗った。1414年にはベンガルから、翌年にはアフリカのマリンディから、キリンが届けられた。人々はこれを、徳の高い君主の世に現れるという伝説の瑞獣、麒麟だと受けとめ、宮廷では祝賀の詩が詠まれ、その姿を描いた絵も残っている。

征服はしなかった。砦を築かず、植民地を置かず、領土も取っていない。ただし、武力を使わなかったわけではない。第1回の帰りには、スマトラのパレンバンを拠点にしていた中国人の海賊の頭を捕らえて連れ帰り、処刑させた。セイロンでは、船団を襲おうとした現地の王と戦い、王を捕らえて南京へ連行している。マラッカでは、新しく興った王国を明が後ろ盾として守り、船団の中継の拠点にした(マラッカ王国の成立)。大きな軍事力が、明の秩序を受け入れさせる背景にあった。セイロンには1409年に船団が建てた石碑が残っており、中国語、タミル語、ペルシア語の三つの言葉で、仏、ヒンドゥーの神、アッラーそれぞれへの寄進が記されている。
航海の様子は、通訳として同行した馬歓の『瀛涯勝覧』などの見聞録で伝わっている。各地の産物や風俗、王の宮殿や市場の様子が、自分の目で見たものとして記されている。のちに明の兵書に収められた航海の図も、航路と針路を記したものとして残る。

1424年に永楽帝が死ぬと、後を継いだ皇帝はすぐに航海を止めさせた。次の宣徳帝が命じて、1431年に最後の航海へ出たが、それきりになった。鄭和は、この七度目の航海の途中か帰国の直後、1433年ごろに世を去ったとされる。インドのカリカットで死んだという説もある。
なぜ打ち切られたのか。宮廷の官僚たちは、莫大な費用を問題にした。船を造る木材、乗組員の食料、贈り物の絹や陶磁器、そのすべてが国庫の負担だった。見返りに入ってくるのは、珍しい品々と使節の挨拶にすぎない。北ではモンゴルの勢力が再び力を盛り返し、防衛と首都北京の建設に金がかかった。1449年には皇帝自身がモンゴルの捕虜になる土木の変が起き、朝廷の目はますます北へ向いた。宦官が主導した事業であったことも、官僚たちの反感を招いたとされる。

明の初めから続く民間の海外渡航の禁止(海禁)は、その後も維持された。大型の外洋船を造ることも厳しく制限されていく。航海の記録の多くも失われた。役人が記録を隠したり焼いたりして、再び航海が企てられるのを防いだという話も伝わるが、後の時代の記述であり、どこまで事実かは分からない。
最後の航海から65年後の1498年、ヴァスコ・ダ・ガマの船がアフリカを回ってカリカットに着いた(ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路)。比べものにならないほど小さな4隻の船だった。彼らは贈り物を交わして帰るのではなく、やがて砦を築き、大砲で港を脅し、海の道そのものを支配しようとする。1511年にはポルトガルがマラッカを奪った(マラッカの陥落)。もし明が海から退かなかったらどうなっていたか、という問いは今も繰り返し語られるが、答えは誰にも分からない。分かっているのは、インド洋の主役が、この後の100年で入れ替わったことである。