朱元璋(洪武帝)
概要
飢饉で家族を失い、乞食僧になり、紅巾軍に入って皇帝になった。中国史で最も低い所から出た皇帝。宰相を廃し、胡惟庸と藍玉の獄で数万人を殺し、農民を里甲に縛り、海を閉じた。顔が醜いと言った者を殺し、肖像画は二種類残る。
所属
明関わったできごと(1)
明の成立AD1368年 · 皇帝本文
朱元璋は、1328年10月21日、元の支配下の濠州鍾離(いまの安徽省鳳陽)の貧しい小作農の家に生まれた。幼名は重八といった。元の時代の農民には正式な名を持たない者が多く、祖父は初一、父は五四と、数字で呼ばれていた。のちに皇帝になったとき、生まれた夜に家から赤い光が立ちのぼった、という話が作られた。

1344年、淮河の流域を旱魃と蝗の害と疫病が続けて襲った。半月ほどのあいだに、父と長兄と母が次々に死んだ。家には棺を買う金も、埋める土地もなかった。地主は墓地を貸すことを拒み、見かねた隣人の劉継祖が土地を分けてくれて、ようやく粗末な布にくるんで葬った。のちに皇帝となった彼は、この場所を「皇陵」として整え、自ら碑文を書いた。碑文には、葬る土地もなかった親の無念と、自分が寺に入り、食を乞うて歩いた日々が飾らずに綴られている。
16歳の彼は、村の皇覚寺に小僧として入った。だが寺も飢饉で食糧が尽き、50日ほどで托鉢の旅に出された。3年ほど、淮西の地を乞食僧として歩いた。この地方には、弥勒が下生して世を救うと説く白蓮教が広がっていた。のちの紅巾の乱の土壌である。

1351年、元の末の重税と黄河の工事への動員に怒った民衆が、白蓮教の結社を中心に各地で蜂起した。頭に紅い布を巻いたので紅巾軍と呼ばれた。翌1352年、幼なじみの湯和から誘いの手紙が届き、寺に戻っていた25歳の朱元璋は、濠州を拠点とする紅巾軍の首領郭子興のもとに加わった。体格がよく機転の利く彼はすぐに取り立てられ、郭子興の養女の馬氏を妻に迎えた。のちの馬皇后である。夫の気の荒さをたびたびなだめ、家臣の命を救ったという逸話が多く残る。纏足をしていない大きな足の皇后として親しまれたのは、民間の伝承による。
1355年に郭子興が死ぬと、彼はやがてその軍を引き継いだ。1356年、長江を渡って集慶(いまの南京)を落とし、応天府と改めて本拠とした。学者の朱升が献じた策、すなわち城壁を高く築き、兵糧を広く蓄え、王を名乗るのは急がない、という方針に従い、まず足場を固めた。劉基(劉伯温)ら江南の知識人も幕下に招いた。

長江の流域には、上流に陳友諒、下流に張士誠という強敵がいた。1363年、陳友諒は巨大な楼船の艦隊で攻め寄せ、両軍は鄱陽湖で36日にわたって戦った。朱元璋の軍は風を利して火船を放ち、敵の艦隊を焼いた。陳友諒は流れ矢に当たって死んだ。1367年には10か月の包囲の末に蘇州を落とし、張士誠を捕らえた。同じ年、北へ軍を出すにあたって発した檄文では、胡虜を追い払い、中華を回復する、と唱えた。
1368年、応天で皇帝に即位し、国号を明、年号を洪武とした(明の成立)。同じ年、将軍徐達が元の都の大都を落とし、元の皇帝はモンゴル高原へ退いた。モンゴル帝国の拡大の中国支配は終わり、乞食僧から身を起こした男が天下を取った。農民出身の開祖としては漢の劉邦がいるが、村の小役人だった劉邦よりも、彼の出自はさらに低い。歴代王朝の開祖の中で最も低い所から出た皇帝と言われる。

皇帝としての彼は、農民の暮らしを知る者として政策を作った。全国の土地を測量して台帳を作り、戸籍を整え、110戸を一つの単位として税と労役を負わせる里甲の制度を敷いた。民は生まれた土地と家業に縛られた。兵は世襲の軍戸として衛所に置かれた。倭寇や敵対勢力に備えて、民が勝手に海へ出ることを禁じた。
そして、功臣と官僚を徹底して疑った。1380年、宰相の胡惟庸が謀反を企てたとして処刑され、連座して多くの者が殺された。日本やモンゴルと通じていたという罪状は、のちになって付け加えられたものである。彼はこれを機に宰相の職そのものを廃止し、六つの省庁を皇帝が直接率いる形にした。以後、明でも清でも、宰相は二度と置かれなかった。胡惟庸の事件の連座は10年以上も広げられ続け、1390年には建国の第一の功臣李善長が77歳で一族70人余りとともに殺された。1393年には将軍藍玉が謀反の罪で処刑され、1万5000人が連座したとされる。帳簿の不正や横領を口実にした事件でも、数万人が死んだと伝わる。殺された者の総数は数万人にのぼる。

汚職には極端な刑で臨んだ。横領が一定の額を超えた役人は、皮を剥がれて中に藁を詰められ、役所の脇にさらされた、と明代の記録は伝える。彼は、乱世の後を治めるには重い刑が要るが、子孫の代には寛くせよ、とも言い残した。
彼の猜疑は文字にも向かった、とされる。上奏文の中に、僧を思わせる「光」や「禿」の字、「賊」と音の近い「則」の字があると、昔の自分を当てこすったとして書いた者を殺した、という話である。ただ、これらは清代の学者がまとめた逸話によるところが大きく、どこまで事実かについては議論がある。

君主に厳しい儒学者孟子も嫌った。民が最も貴く、君主は最も軽い、とする孟子の言葉を読んで激怒し、この老人が今生きていたら許さないところだと言ったと伝えられる。孟子の位牌を孔子廟から外させ(間もなく戻された)、晩年には『孟子』から君主を批判する85か所を削った『孟子節文』を作らせて、科挙の試験で使わせた。
彼の肖像画は、まったく違う二つの顔で伝わっている。一つは、ふくよかで穏やかな皇帝の顔。もう一つは、顎が大きく突き出し、顔にあざや黒子が散らばる異相である。異相の画は民間で広まったもので、醜く描いた画家も、美しすぎるほどに描いた画家も殺され、似ていてしかも威厳を備えた絵を描いた者だけが褒美を得た、という話まで生まれた。これも伝説の域を出ない。
1398年6月24日、70歳で死んだ。南京の紫金山の麓の孝陵に葬られ、多くの妃が殉死させられた。遺詔では、天下の臣民は3日で喪を終えよと命じた。皇太子は6年前に病死しており、帝位は孫の建文帝が継いだ。だが若い皇帝が叔父たちの力を削ろうとすると、北平にいた叔父の燕王が兵を挙げ、4年後に南京を落として帝位に就いた。のちの永楽帝である。
彼の作った仕組みは、宰相のいない皇帝独裁、農民を土地に縛る戸籍と税の制度、海を閉ざす政策として、明だけでなく次の清にまで長く受け継がれた。