殷の成立
概要
湯王が夏の桀を倒したと伝わる。考古学で確かめられる中国最古の王朝で、青銅器と甲骨文字と人身供犠を残した。
場所
36.13°N 114.31°E · 中国・河南省安陽
本文
司馬遷の『史記』によれば、中国の最初の王朝は夏で、洪水を治めた禹が開いた。その最後の王・桀は暴虐で、民を苦しめた。東方の商(殷)の君主だった湯は、賢臣の伊尹を得て力を蓄え、諸侯を率いて桀を討った。両軍は鳴条で戦い、敗れた桀は南へ逃れて死んだ。湯は天命を受けて新しい王朝を開いた、と伝えられる。古典の年代をもとにした推定では、それは紀元前1600年ごろのことになる。
この話は長いあいだ、半ば伝説として扱われてきた。20世紀のはじめ、古い文献を疑う学者たちは、殷の王の系譜さえ後世の作り話かもしれないと考えていた。それを覆したのが、亀の甲羅や牛の骨に刻まれた文字である(甲骨文字)。19世紀の終わり、薬屋で「竜骨」として売られていた骨に文字があることに学者が気づいたのが始まりとされる。文字を読み解くと、そこには歴代の王の名が並び、『史記』の殷の系図と大筋で一致した。1928年からは河南省安陽の殷墟で本格的な発掘が始まり、王の墓や宮殿の跡が次々に姿を現した。殷は、文字の記録と遺跡の両方で確かめられる、中国で最も古い王朝になった。

夏のほうは、まだ確かめられていない。殷よりも古い時代の大きな宮殿の跡として、河南省偃師の二里頭遺跡がよく知られ、これを夏の都とみる研究者は中国に多い(二里頭の宮殿)。しかし二里頭からは、そこが何と呼ばれた国だったかを示す文字が出ておらず、夏と結びつけることには慎重な意見も根強い。殷の初めの都についても、鄭州で見つかった城壁に囲まれた大きな遺跡(二里岡文化)をそれにあてる説が有力だが、確定してはいない。
殷の王たちは、何度も都を移した。伝承では、盤庚の代に殷(いまの安陽)へ都を移し、以後は滅亡までそこにとどまったとされる。殷墟の甲骨の多くは、その後半の時代、とくに武丁と婦好の時代のものである。1976年に盗掘を免れた状態で見つかった婦好の墓からは、青銅器や玉器が1900点あまり出土した。

殷を特徴づけるのは、まず青銅器である。神や祖先に酒や肉を捧げるための器で、饕餮文と呼ばれる獣の顔のような文様がびっしりと鋳出されている。重さ800キロを超える巨大な方鼎も作られた。銅と錫の鉱石を遠くから集め、大勢の職人を組織して鋳造する力は、同じ時代の東アジアのどこにも見当たらない。
次に、占いである。王は大事なことを決める前に、甲羅や骨の裏に穴を彫り、火を当ててひびを入れ、その形から吉凶を読んだ。問いと答え、ときには実際の結果も、表面に刻まれた。雨は降るか、収穫はあるか、戦争に出てよいか、王妃の出産は無事か、王の歯の痛みは祖先の祟りか。甲骨には、王の暮らしと心配ごとがそのまま残っている。

そして、人身供犠である。殷墟の王墓には、殉死した側近や護衛、首を斬られた多数の人骨が埋められていた。祖先の祭りのたびに、戦争で捕らえた羌などの異民族が生贄にされた。甲骨の記録から数えると、生贄にされた人の数は合わせて1万数千人にのぼるとする研究もある。
殷の王は、亡き祖先たちを通じて最高神である「帝」に願いを届けると考えられていた。祖先を祀り、その意向をうかがって政治を行う。この祖先を重んじる考え方は、殷を倒した周にも受け継がれ、のちの中国の家族と国家のあり方の芯になった。
殷はおよそ600年続き、紀元前1046年ごろ、西方から来た周の武王に牧野の戦い(殷周革命)で敗れて滅んだ。周の人びとは、殷の紂王が暴君だったから天命が移った、と説いた。夏の桀を倒した湯の物語と、殷の紂を倒した武王の物語がよく似ているのは偶然ではない。王朝の交代を天命で説明する考え方は、ここから中国の歴史の書き方そのものになっていく。