北魏の建国
概要
鮮卑の拓跋珪が国を再興し、平城(大同)を都にした。五胡十六国の混乱を53年後に統一する王朝で、以後150年、華北は鮮卑の王朝が治める。
場所
40.09°N 113.29°E · 中国・山西省大同市(北魏の都)
本文
鮮卑は、モンゴル高原の東の森と草原に住んだ騎馬の人びとの総称である。その一派の拓跋部は、伝承では大興安嶺の山中の洞窟を祖先の地とし、何代もかけて南西へ移り、3世紀には内モンゴルの盛楽(いまのフフホトの近く)を本拠にした。1980年、大興安嶺の嘎仙洞という洞窟で、北魏の皇帝が443年に祖先の廟へ使いを送って刻ませた祝文が見つかり、この伝承が根拠のあるものだったことが分かった。
4世紀の初め、晋が八王の乱で崩れると、華北は五胡十六国の時代に入る。拓跋部は晋の側に立って匈奴と戦い、315年、その首長は晋から「代王」に封じられた。しかし376年、氐族の苻堅が率いる前秦が華北を統一すると(前秦の華北統一)、代国は攻め滅ぼされ、部族は分割された。王の孫で、のちに北魏を開く拓跋珪は、このとき5歳ほどで、母に連れられて各地の部族のもとを転々としたと伝えられる。

転機は383年に来た。前秦の苻堅が、南の東晋を滅ぼそうとして大軍を動かし、淝水の戦いで大敗したのである。華北を押さえていた力が一夜で消え、従えられていた諸部族がいっせいに自立した。386年、15歳の拓跋珪は旧臣と部族の長たちに推されて代王の位に就き、同じ年のうちに国の名を魏に改めた。同じ名の三国時代の魏と区別して、北魏と呼ぶ。
拓跋珪の前には、同じ鮮卑の慕容氏が建てた後燕が立ちはだかった。395年、黄河の湾曲部の参合陂で、北魏軍は後燕の大軍を急襲して打ち破り、捕えた兵数万人を生き埋めにしたと史書は記す。北魏は河北の平野へ攻め込み、398年、都を盛楽から南の平城(いまの山西省大同)へ移し、拓跋珪は皇帝の位に就いた。道武帝である。

道武帝は、草原の王から中国の皇帝へ変わろうとした。漢人の知識人を登用して官制と礼をととのえ、征服した土地の農民や職人を大量に平城の周りへ移して田を耕させた。さらに、それまで血縁でまとまっていた部族を解体し、部族の人びとを戸籍に登録して土地を与え、首長の私兵ではなく皇帝に直接属する民と兵にした。一方で、皇太子が決まるとその生母を殺すという掟も始めた。母の一族が外戚として力を持つことを防ぐためで、のちの代まで続いた。
晩年の道武帝は、当時の貴族のあいだで流行した寒食散という鉱物の薬を飲み続け、その毒のせいか、疑い深く荒々しくなり、近臣を次々に手にかけた。409年、母を殺されそうになった息子に宮中で殺された。数えで39歳だった。

北魏はその後も勢いを保ち、孫の太武帝が439年に華北を統一した(北魏の華北統一)。東晋の後を継いだ南朝と向き合う、南北朝の時代の始まりである。北魏は、仏教を厳しく弾圧した時期(太武帝の廃仏)と、国を挙げて仏教を保護した時期を行き来し、平城の郊外に雲岡石窟の造営を開いた。5世紀の終わり、孝文帝は都を洛陽に移し、鮮卑の服装と言葉を禁じ、皇族の姓を拓跋から元に改めるという大胆な漢化を進めた(孝文帝の洛陽遷都と漢化)。土地を民に割り当てて税と兵役を課す均田制も、この王朝が始めたもので、隋と唐に受け継がれた。
漢化は、北の国境を守る鮮卑の兵たちを置き去りにした。洛陽の貴族が華やかに暮らす一方、北辺の六つの軍鎮の兵は身分を落とされ、523年ごろから大反乱を起こす。北魏は534年に東西に割れて148年の歴史を閉じ、東魏は北斉に、西魏は宇文泰の一族の北周に代わった。この北周の外戚から隋を開いた楊堅が出て(隋の中国再統一)、その隋に仕えた李氏が唐を開く(唐の成立)。隋と唐の皇室はいずれも鮮卑の名門と婚姻を重ねた家で、その支配層は北魏が作った鮮卑と漢人の混じり合った貴族の世界から生まれた。モンゴル高原に残る8世紀の突厥の碑文は中国のことを「タブガチ」と呼んでいる。拓跋の名が、遊牧の人びとにとって中国そのものを指す名になっていた。