できごと

唐の滅亡

Fall of the Tang
AD907年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD907年の版図を描いています(37勢力)。

概要

朱全忠が哀帝に禅譲させ、後梁を建てた。2年前、唐の官僚30人を黄河に投げ込んでいた。「清流を濁流に投げよ」。290年の唐が終わり、53年で五つの王朝が代わる。

場所

洛陽
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省

関わった人(1)

朱全忠(朱温)AD852年–AD912年 · 簒奪

本文

唐は、8世紀の安史の乱のあと、国の形が大きく変わっていた。乱を鎮めるために各地に置いた節度使が、兵と税を握って半ば独立し、都の朝廷では宦官が皇帝の廃立を左右するようになる。それでも唐は塩の専売などで財政をつなぎ、100年以上を持ちこたえた。とどめを刺したのは、875年に始まった黄巣の乱だった。塩の密売人の黄巣が率いた反乱軍は、中国の南北を荒らし回り、880年には長安を落とした。

その反乱軍の中に、のちに唐を終わらせる朱全忠(朱温)がいた。貧しい家に生まれ、黄巣の部将となった朱温は、882年に唐の側へ寝返る。喜んだ皇帝の僖宗は、「全き忠義」を意味する「全忠」の名を与え、開封を治める宣武節度使に任じた。朱全忠は黄巣の残党を討ち、華北の諸勢力を併せて、最大の軍閥に成長していく。北の太原には、突厥の流れをくむ沙陀の族長、李克用がいた。この二人の争いは20年以上続く。

朱全忠(朱温)
朱全忠(朱温)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

朝廷は、宦官と官僚と軍閥の争いの場になっていた。903年、朱全忠は宰相崔胤と組んで、宮中の宦官を数百人皆殺しにした。150年にわたって皇帝を動かしてきた宦官の勢力は、ここで消えた。翌904年、朱全忠は皇帝昭宗を、自分の勢力の近い洛陽へ移す。長安の宮殿や役所、民家は取り壊され、材木は渭水と黄河に流されて洛陽へ運ばれた。唐の都、長安は廃墟となり、二度と中国の都にはならなかった。その年の8月、朱全忠は配下に昭宗を殺させ、13歳の哀帝を立てた。

905年、朱全忠は、裴枢をはじめとする朝廷の高官30人あまりを、黄河のほとりの白馬駅に集めて殺した。側近の李振が、この者たちはいつも自らを「清流」と称している、黄河に投げ込んで「濁流」にしてしまえ、と言い、朱全忠は笑ってそれに従ったと『資治通鑑』は書く。李振は科挙に何度も落ちた人で、名門の官僚を恨んでいた、とされる。唐の貴族の官僚たちは、ここでほぼ消え去った。

唐が衰えていく様子は、日本からも見えていた。894年、菅原道真の進言で遣唐使の中止が決まり、大陸の混乱の中へ使節を送ることはやめになった。黄巣の軍に荒らされた長安の惨状は、詩人韋荘が長い詩「秦婦吟」に描いている。百万の人が暮らしたとされる唐の都の繁栄は、朱全忠が宮殿を壊す前に、すでに失われつつあった。

907年4月、哀帝は朱全忠に位を譲った。朱全忠は皇帝となって国号を梁とし、開封を都とした。後の歴史家はこれを後梁と呼ぶ。翌年、廃された哀帝は毒殺された。17歳だった。618年の唐の成立から数えて、290年の王朝の終わりである。

李克用は後梁を認めず、唐の年号を使い続けた。その子の李存勗は923年に後梁を滅ぼし、唐の後継を名乗って後唐を建てる。そのあと華北では、後晋、後漢、後周と王朝がめまぐるしく代わり、南には十ほどの国が並び立った。五代十国の時代である。朱全忠自身は、912年に息子の朱友珪に殺されていた。宮中の乱れと親子の殺し合いは、この時代を通じて繰り返される。

朱全忠が都に選んだ開封は、黄河と大運河が交わり、江南の米が集まる場所だった。長安や洛陽のような山に囲まれた古都ではなく、物流の要の町が都になったことは、時代の変わり目をよく表している。開封は、五代の多くの王朝を経て、宋の都として百万の人が暮らす大都市になる。

唐の滅亡は、一つの王朝の終わりにとどまらなかった。門閥の貴族が官僚として国を動かす時代は、黄巣の乱と朱全忠の殺戮で幕を閉じた。960年の宋の成立のあと、皇帝は科挙で選んだ官僚を手足とし、武人を抑える国を作っていく。宋の欧陽脩は『新五代史』で、この時代を嘆く論を、たびたび「ああ」で始めている。

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