韓愈「論仏骨表」
概要
法門寺の仏舎利が30年ぶりに宮中に迎えられ、街が熱狂した。韓愈は「仏は夷狄の人、その骨は汚れたもの」と上表した。皇帝は怒って殺そうとし、潮州に流した。儒教の側からの仏教批判の、代表になる。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
韓愈AD768年–AD824年 · 上表本文
唐の都長安の西、扶風の法門寺には、仏の指の骨と伝えられる舎利が納められていた。古代インドのアショーカ王が仏の遺骨を分けて各地に塔を建てた、その一つだという言い伝えもあった。唐の皇帝たちは、およそ30年に一度、寺の塔を開いてこの舎利を宮中に迎え、供養した。開けば、その年は豊作になり、世は安らかになると信じられていた。
唐の朝廷は、安史の乱のあと長く衰えていたが、9世紀のはじめに即位した憲宗は、各地で勝手にふるまう節度使を次々と抑え、一時的に朝廷の威信を取り戻していた。819年の正月、その憲宗が、舎利を迎えることを決める。使者が法門寺から舎利を運び、宮中で3日間供養したあと、長安の寺々を巡らせた。

都は熱狂した。人びとは仕事を放り出して拝みに押し寄せ、財産を投げ出して寄進する者、腕や頭に火をつけて身を焼き、信心を示そうとする者まで現れたという。皇帝が先頭に立って仏を敬っている以上、民がそれにならうのは当然のことだった。
このとき、刑部侍郎の職にあった韓愈が、皇帝に一通の上表文を差し出した。これが「論仏骨表」である。韓愈は言う。仏教はもともと夷狄の一つの教えにすぎず、後漢の時代に中国に入ってきた。それより前の聖なる帝王たちはみな長く国を保ち、長生きをしたが、仏教が入ってからの王朝はかえって短命に終わった。仏をあつく信じた梁の武帝(梁の武帝の捨身)は、最後は城に囲まれて飢えて死んだではないか、と。

さらに韓愈は続ける。仏はもともと夷狄の人で、中国の言葉を話さず、中国の服を着ず、君と臣の道も、父と子の情も知らなかった。もし仏が今も生きていて都に来たとしても、陛下は一度会って衣を与え、国境まで送り返すだけだろう。まして、死んで久しい枯れた骨、汚れた残りかすを、どうして宮中に入れられようか。この骨を役人に下げ渡して水か火に投じ、天下の迷いを永久に断ってほしい。もし仏に霊があって祟りをなすなら、その災いはすべて私の身に下してほしい。
憲宗は激怒した。皇帝が自ら敬っている仏を辱め、仏を信じた王朝は短命だと言い切ったのである。皇帝は韓愈を死罪にしようとしたが、宰相の裴度や崔群らが、忠誠から出た言葉だととりなした。韓愈は死を免れたが、都から遠く離れた南の潮州、いまの広東省の東の端の刺史に左遷された。
韓愈は寒さの中、都を発った。途中、秦嶺の山の関所で、後を追ってきた兄の孫の韓湘に与えた詩はよく知られている。朝に一通の上表を奉り、夕べには八千里の潮州へと流される。雲は秦嶺に横たわり、わが家はどこにあるのか、雪は関所を埋めて、馬は進まない。お前が遠くから来たのにはわけがあろう、瘴気の立つ川のほとりで、私の骨を拾ってくれ、と。
潮州に着いた韓愈は、土地の人びとを悩ませていたワニに向けて、立ち退きを命じる文を書いて川に投じた。七日のうちに南の海へ去れ、去らなければ強い弓で射殺す、という文である。韓愈の伝記によれば、ワニはやがて姿を消したという。もちろん伝説の色が濃いが、韓愈は潮州で学校を興し、土地の人びとからいまも敬われている。
翌820年、憲宗は宮中で急死した。宦官に殺されたと言われる。韓愈は赦されて都に戻り、高い官職を歴任して、824年に世を去った。
「論仏骨表」は、儒教の立場からの仏教批判の、最もよく知られた文章になった。韓愈は、六朝以来の飾り立てた文体を退けて、古代の簡潔な文章に戻ろうとする古文の運動の旗手でもあった。また、孔子から孟子へと儒教の正しい道が受け継がれてきたと説き、仏教や道教に対抗した。その考えは、宋の時代に新しい儒学を生む土台の一つとなり、のちの朱子学の成立へとつながっていく。韓愈の死から20年ほど後には、唐の朝廷そのものが大がかりな仏教の弾圧に乗り出した(会昌の廃仏)。

一方、仏の骨は焼かれなかった。舎利は法門寺に戻され、874年に再び宮中に迎えられたのを最後に、塔の地下に封じられた。それから千百年あまりたった1981年、長雨で法門寺の塔が半分崩れ落ちる。建て直しのために1987年に地下を調べると、封じられた地下の部屋から、仏の指の骨とされる舎利と、唐の皇帝たちが供えた金銀の器や絹、ガラスの器が、手つかずのまま見つかった。韓愈が水か火に投じよと言った骨は、そこに眠り続けていたのである。