侯景の乱
概要
亡命してきた武将が反乱し、建康を囲んだ。仏教に帰依して寺に身を捨てていた老皇帝は、幽閉されて餓死した。南朝の貴族社会は、この乱で壊れる。
場所
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省
本文
6世紀の前半、中国は南北に分かれていた。北は北魏が東魏と西魏に割れて争い、南は梁が長江の流域を治めていた。梁の都は建康、いまの南京である。
梁を建てた武帝、蕭衍(梁の武帝)は、502年から半世紀近く帝位にあった。若いころは文武に優れた武将で、学問にも深く通じていた。即位後は仏教にあつく帰依し、肉食を断ち、寺を次々に建てた。都には数百の寺が立ち並んだといわれる。武帝は四度にわたって自分の身を寺に捧げ、そのたびに臣下が莫大な銭を払って皇帝を「買い戻した」(梁の武帝の捨身)。長い平和の中で、建康は南朝で最も華やかな都になった。

その陰で、国の締まりは緩んでいた。皇族の王たちは各地で勝手に振る舞い、役人の不正も見逃された。武帝は寛大な人で、身内の罪をほとんど罰しなかった。都の貴族たちは、詩文や清談に明け暮れ、実務や軍事を卑しいものと見ていた。
侯景は、北の東魏の将軍だった。北の辺境の出身で、もとは別の勢力に仕え、のちに東魏の実力者高歓のもとで、黄河の南の広い土地と10万の兵を預かっていた。547年に高歓が死ぬと、その息子と折り合いの悪かった侯景は東魏に背き、西魏に、次いで梁に身を寄せようとした。黄河の南の十三州を手土産にする、という申し出だった。
武帝は、北の土地を取り戻す好機と考えて、これを受け入れた。重臣の中には反対する者もいた。梁は甥の率いる軍を送って侯景を助けようとしたが、東魏軍に大敗し、甥は捕らえられた。侯景も東魏軍に敗れ、わずか800人ほどの兵を連れて梁の領内に逃げ込んだ。
まもなく梁と東魏の間に和議の話が持ち上がった。捕らえられた甥と引き換えに、侯景を東魏に引き渡すのではないか。疑った侯景は、東魏の使者を装った偽の手紙を梁の朝廷に送って試した。梁の返事は、甥が戻れば侯景を引き渡す、というものだった。
548年、侯景は反乱を起こした。手勢はわずかだったが、梁の皇族の中に、帝位を狙って侯景に内通する者がいた。その手引きで侯景の軍は長江を渡り、建康に迫った。都の守りは手薄で、侯景は皇帝のいる宮城、台城を囲んだ。
包囲は4か月あまり続いた。城内には10万を超える人がこもっていたが、食糧は尽き、病が広がった。各地の皇族の王たちは救援の軍を率いて都の近くまで来たが、互いに牽制し合い、本気で戦おうとしなかった。誰が都を救った功を取り、次の帝位に近づくか。王たちの関心は、そこにあった。
549年3月、台城は落ちた。侯景の前に引き出された武帝は、自分で手に入れたものを自分で失うのだ、何を悔やむことがあろう、と言ったと伝えられる。武帝は幽閉され、食事も満足に与えられないまま、5月に死んだ。数えで86歳だった。死ぬ前、口が苦いと蜜を求めたが与えられなかったと史書は記している。
この乱で、南朝の貴族たちは無残な姿をさらした。同じ時代を生きた顔之推は、のちに子孫への教えを書いた『顔氏家訓』の中で、梁の貴族たちの様子を記している。ゆったりした衣に高い下駄を履き、香をたきしめて白粉をつけ、馬に乗ったこともない。馬がいななくのを聞いて虎だと怯えた者までいた。肌は弱く骨は柔らかく、歩くことにも、暑さ寒さにも耐えられない。乱が起きると、彼らは逃げることもできず、多くが道端で死んだ、と。
侯景は武帝の子を皇帝に立てて操り、やがてそれも殺して、551年に自ら帝位に就いた。だが翌552年、地方の将軍たちに攻められて敗れ、海へ逃げる途中で部下に殺された。
乱のあと、梁の残った皇族は長江中流の江陵に拠ったが、554年、西魏の軍に攻め落とされた。この皇族は落城の直前、集めていた14万巻ともいわれる書物を焼き払った。建康は荒れ果て、人口は大きく減った。詩人の庾信は北に抑留されたまま、失われた江南を悼む長い賦を書いた。557年、乱の鎮圧で功を上げた陳覇先が陳を建てたが、南朝の力は戻らなかった。
南の貴族社会は、この乱で大きく崩れた。家柄によって高い位を受け継いできた名門の多くが、財産も人も失った(九品官人法)。589年、北から起こった隋が陳を滅ぼし、中国は再び一つにまとまる(隋の中国再統一)。