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Event / できごと

大運河の完成

Grand Canal completed
AD609年
重要度 5

概要

煬帝が、洛陽を中心に、南は杭州、北は涿郡(北京)まで、2500キロを掘らせた。延べ数百万人。堤に柳を植え、40の離宮を置いた。江南の米が北の都と軍を養えるようになり、中国の南北が経済で一つになった。同時に、この工事と3度の高句麗遠征が隋を潰した。運河は残り、その後1300年、中国の背骨だった。

場所

揚州
32.39°N 119.41°E · 中国・江蘇省

本文

中国の大河は、東西に流れる(黄河、淮河、長江)。南北をつなぐ水路はない。

古い部分。BC486年、呉王夫差が、揚州で長江と淮河をつなぐ邗溝を掘った(北の斉を攻めるため)。BC360年、魏が鴻溝を掘った。秦と漢も、部分的に掘った。

581年、隋。文帝が中国を統一した。都は長安(関中)。関中の農地では、都と軍と役所を養えない。米は江南(長江の下流)にある。

604年、煬帝が即位した。605年から。

605年、通済渠。洛陽から東南へ、黄河と淮河をつなぐ。100万人を徴発した。同時に、邗溝を広げた(淮河から長江へ)。608年、永済渠。黄河から北へ、涿郡(いまの北京)まで。100万人以上。男が足りず、女も徴発された。610年、江南河。長江から杭州(余杭)まで。

合わせて2500キロ。幅は30〜40歩(50〜70メートル)の区間もあった。両岸に「御道」を作り、柳を植えた。40の離宮を沿岸に置いた。

煬帝は、完成の年、龍舟で江都(揚州)へ下った。船団は200里(80キロ以上)に及び、8万人が岸から曳いた、と『資治通鑑』は書く。

代償。工事の死者は、数十万から100万と伝える(記録の数字は誇張を含む)。同時に、高句麗遠征を3度(612年、113万の兵。失敗)。山東で農民が立ち、各地が呼応した。618年、煬帝は江都で、自分の近衛兵に絞め殺された。隋は37年で終わった。

「隋は運河のために滅び、唐は運河によって栄えた」。晩唐の詩人皮日休。「尽く隋の亡ぶるは此の河のためと道う。今に至るまで千里、波を通じて利あり。もし水殿龍舟の事無くんば、禹を共にして功を論じて多きに較べず(禹の治水と比べても劣らない)」。

唐と宋。江南の米が、毎年、数百万石、北へ運ばれた(漕運)。開封が北宋の都になったのは、運河の要にあったから。運河沿いの都市が栄えた(揚州、蘇州、杭州)。

元。大都(北京)が都になり、山東を突っ切る新しい水路(会通河、通恵河)が掘られて、洛陽を経由しない、南北のほぼ直線の運河になった。郭守敬が設計した。

明清。永楽帝が北京に遷都して、運河が国の生命線になった。年に400万石の米(漕糧)。運河を管理する役所と、専属の運軍12万人。閘門(水位を段階的に上げ下げする水門。世界最初期のもの。宋代の喬維嶽が984年に発明した、と『宋史』にある)。

19世紀、黄河の流路の変更(1855年)と、太平天国と、そして海運と鉄道で、運河は衰えた。

いま、南半分は使われている(貨物船が行き交う)。2002年から「南水北調」東線として、長江の水を北へ送る水路に使われている。2014年、世界遺産。

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