大運河の完成
概要
煬帝が、洛陽を中心に、南は杭州、北は涿郡(北京)まで、2500キロを掘らせた。延べ数百万人。堤に柳を植え、40の離宮を置いた。江南の米が北の都と軍を養えるようになり、中国の南北が経済で一つになった。同時に、この工事と3度の高句麗遠征が隋を潰した。運河は残り、その後1300年、中国の背骨だった。
場所
32.39°N 119.41°E · 中国・江蘇省
本文
中国の大河は、どれも西から東へ流れる。北から黄河、淮河、長江。人と物を船で運ぶなら東西は楽だが、南北をつなぐ水の道は、自然には一本も無い。ところが中国の歴史では、政治と軍事の中心は北に、豊かな田は南に置かれることが多かった。その食い違いを、人の手で掘った水路で埋めようとしたのが大運河である。
部分的な運河は古くからあった。紀元前486年、呉王の夫差は北の斉を攻めるために、いまの揚州で長江と淮河を結ぶ邗溝を掘った。紀元前4世紀には魏が黄河と淮河の支流を結ぶ鴻溝を開き、秦と漢もそれぞれの区間を掘り継いだ。だが、それらは時代ごとの継ぎはぎで、南から北の都まで一続きに船が通る水路ではなかった。

589年、隋が南朝の陳を滅ぼし、三百年近く割れていた中国を一つにした(隋の中国再統一)。都は長安に置かれたが、関中の田だけでは、都の人口と軍と役所を養いきれない。米の余る土地は、長江の下流の江南にある。南を征した王朝にとって、南の富を北へ運ぶ道は、統一を形だけで終わらせないための条件だった。
604年に即位した煬帝は、翌605年から工事を始める。まず通済渠。洛陽の西苑から黄河に出て、淮河まで東南へ下る水路で、『資治通鑑』は河南の諸郡から男女100万余りを動員したと書く。同じ年、古い邗溝を広げて淮河と長江をつないだ。608年には永済渠。黄河から北へ、涿郡(いまの北京の近く)まで延ばし、このときも河北の男女100万余りを使った。男手が足りず、女まで駆り出されたという。610年には長江の南、京口(いまの鎮江)から余杭(杭州)までの江南河の開削が命じられた。洛陽を要に、北東と東南へ腕を広げた形の水路は、合わせて2500キロ前後に及ぶ。岸には御道と呼ばれる道を通して柳を植え、沿岸に40余りの離宮を置いたと伝えられる。

通済渠が開いた605年の秋、煬帝は龍舟と呼ばれる四層の御座船に乗って江都(揚州)へ下った。『資治通鑑』によれば、船団は舳先と艫を接して200里余りに連なり、岸から綱で曳く者が8万人を超えた。南の都の華やかさを愛した煬帝は、その後も江都へ繰り返し行幸する。運河は、国の動脈であると同時に、皇帝の遊びの道としても記憶されることになった。
代償は大きかった。工事で死んだ人の数は史書に確かな数字が無く、数十万とも、それ以上とも言われる。煬帝は同時に、北東の高句麗へ大軍を向けた。612年の遠征は113万人余りの兵を動かしたと記録されるが、遼東の城を落とせず、別働隊は薩水(清川江とされる)で大敗した。613年、614年と遠征は続き、永済渠は兵と食糧を北へ運ぶ道として酷使された。徴発と重税に耐えかねた農民が山東から立ち上がり、反乱は各地に広がる。618年、江都にとどまっていた煬帝は、近衛の将軍たちに縊り殺された。同じ年、李淵が長安で唐の成立を宣言する。隋は二代、37年で終わった。

晩唐の詩人皮日休は、運河の跡を詠んで、人はみな隋がこの河のために滅んだと言うが、いまも千里の水が人を利している、龍舟の遊びさえ無ければ、その功は禹の治水にも劣らない、と書いた。運河を掘った王朝は倒れ、運河を受け継いだ王朝が栄えた。
唐は、江南の米を運河で北へ運ぶ漕運を国の柱にした。安史の乱で北の田が荒れたあとは、なおさら南に頼った。宋の都の開封は、汴河と呼ばれた通済渠の要に位置し、毎年数百万石の米がここへ集まった。984年、淮南の運河で役人の喬維嶽が、二つの門で水位を上げ下げして船を通す閘門を作ったと『宋史』は記す。ヨーロッパで同じ仕組みが広まるより、三百年以上早い。運河沿いの揚州、蘇州、杭州は、商業の町として大きくなった。

元が大都(北京)に都を置くと、洛陽を回る古い経路は遠回りになった。13世紀の末、山東を南北に突っ切る会通河が掘られ、大都の城内まで船を入れる通恵河を郭守敬が設計した。北京から杭州までほぼ一直線の、いまの京杭大運河の骨格はこのとき出来た。もっとも元は、海の道で米を運ぶほうにも多くを頼っている。
明の永楽帝が北京へ都を移すと、運河は国の生命線になった。山東の区間を浚い直して海運をやめ、15世紀の後半からは、毎年400万石の米を運河で北へ送ることが定めとなる。運河を管理する役所が置かれ、10万を超える運軍が船を動かした。清もこの仕組みを受け継いだ。
衰えは19世紀に来た。1855年、黄河が流れを北へ大きく変え、山東で運河を断ち切った。太平天国の乱で江南が戦場になり、蒸気船による海運と、のちには鉄道が、運河の役目を奪っていく。20世紀の初め、米を運河で運ぶ漕運の制度は廃止された。

それでも運河は消えていない。長江から南の区間を中心に、いまも砂や石炭を積んだ船が列をなして行き交う。長江の水を北へ送る南水北調の東線は、2002年に着工し、2013年から運河の水路を使って水を流している。2014年、大運河は世界遺産に登録された。煬帝の工事と同じ頃、倭国の使いが隋を訪れている(遣隋使)。彼らが見た帝国の背骨は、千四百年後のいまも動いている。