三星堆の青銅器
概要
殷とはまったく違う造形の巨大な仮面が四川で出た。中国の古代文明が黄河のひとつではなかったことを示す。
場所
30.99°N 104.20°E · 中国・四川省広漢市
本文
1986年の夏、四川省成都の北東、広漢市の三星堆で、煉瓦工場の作業員が土を掘っていて、玉器や青銅器の埋まった穴に行き当たった。発掘に入った考古学者たちは、数十メートル離れた2つの穴から、それまで誰も見たことのない青銅器を大量に掘り出した。この一帯では1929年に農民が玉器を見つけており、1930年代から調査も行われていたが、これほどのものが眠っているとは思われていなかった。
出てきたものは、殷(商)の青銅器とはまるで違っていた。台座を含めて高さ2.6メートルを超える、裸足で立つ人物の像。両手は大きな輪を作り、何かを握っていたように見える。幅1.38メートルの巨大な仮面は、目が円柱のように前へ十数センチも飛び出し、耳は翼のように横へ広がっている。高さ4メートル近い青銅の樹には、枝ごとに鳥がとまり、龍が幹を伝って降りている。金の薄板を貼った人の頭部、長さ1メートルを超える金の杖の覆い、何十本もの象牙も一緒に埋まっていた。

殷の青銅器は、酒や食べ物を神や祖先に捧げる容器が中心で、器の表面を獣の顔の文様が埋める。三星堆のものは、人の姿と、誇張された目と、樹が主役である。殷の様式に似た容器もわずかに混じっており、黄河流域と何らかの行き来があったことは分かる。それでも、人の姿をこれほど大きく表した青銅器は、同じ時代の中国のどこにも例がない。
文字は出ていない。殷が亀の甲羅や牛の骨に文字を刻んでいたのと(甲骨文字)同じ頃、この地の人々が何を記録していたのかは分からない。誰が、何を祀るためにこれらを作ったのかも、確かなことは言えない。古い地誌には、蜀の最初の王蚕叢は「目が縦(前に突き出ていた)」と書かれており、飛び出した目の仮面と結びつける説があるが、推測の域を出ない。

謎はもう一つある。器物の多くは、わざと壊され、火にかけられてから、層をなすように穴に投げ込まれていた。祭りの儀式の一部として埋めたのか、王朝の交代や戦乱で神殿の宝を処分したのか、意見は分かれている。
作り方にも手がかりがある。大きな像や樹は、いくつもの部品を別々に鋳造してから組み合わせており、高い技術を持つ工人の集団がいたことが分かる。青銅に含まれる鉛の成分を調べた研究では、殷の都の青銅器と同じ特徴を持つ鉛が使われているという結果が出ている。原料の金属が遠く離れた地域の間で流通していた可能性があり、三星堆は孤立した文明ではなく、広い交易の網の一角にあったとも考えられる。ただし、その鉛がどこで採れたのかは、まだ突き止められていない。

穴が埋められた年代は、長く議論されてきた。2019年から2020年にかけて、最初の2つの穴のすぐそばで新たに6つの穴が見つかり、発掘が進められた。出てきた炭などを放射性炭素で測ったところ、紀元前12世紀から前11世紀ごろという結果が出ている。黄河流域では殷の後期、安陽に都が置かれていた時代にあたる。新しい穴からも、金の仮面の大きな断片や、頭に器を載せた人物の像など、これまでにない形の青銅器が見つかった。
三星堆の文化はその後、成都の金沙遺跡に引き継がれたと考えられている。金沙からは、4羽の鳥が太陽の周りを飛ぶ透かし彫りの金の円盤が出ており、三星堆と同じ系統の美意識がうかがえる。のちの記録に現れる蜀の国は、この流れの末にあるとみられる。周が殷を倒した戦いで、周の側に加わった諸族の中に「蜀」の名が見える(牧野の戦い(殷周革命))。

三星堆の発見が示したのは、中国の古代文明が、黄河流域から一つの中心として広がったのではないということだった。かつては、二里頭の宮殿や殷の成立のような中原の王朝が文明の源で、周辺はそれを受け取る側だと考えられがちだった。だが、長江の上流の盆地には、中原とは異なる神々と世界観を持ち、それに劣らない技術で青銅を鋳た社会があった。しかも、文献にはその記録がほとんど残っていない。書かれた歴史が、すべてを語るわけではないことを、地中から出てきた青銅が示している。