北魏の華北統一
概要
鮮卑の王朝が華北をまとめた。のちに自ら漢化を進め、鮮卑の言葉と服装を捨てる。
場所
40.09°N 113.29°E · 中国・山西省大同市(北魏の都)
本文
4世紀の初め、西晋が内乱で崩れると、華北には北方や西方から移ってきた諸民族が次々と国を立てた。五胡十六国と呼ばれる時代である。383年には華北をいったんまとめた前秦の苻堅が、南の東晋を攻めて淝水の戦いで大敗し、華北は再びばらばらになった。
その中から伸びてきたのが、鮮卑の拓跋氏だった。386年に拓跋珪が国を立て(北魏の建国)、398年に平城(いまの大同)を都とした。遊牧の騎馬軍団を中心に、征服した土地の農民を都の周りへ大規模に移住させ、国の土台を作っていった。

統一を成し遂げたのは三代目の太武帝である。427年に夏の都・統万城を攻め落とし、436年に東北の北燕を滅ぼした。439年、河西回廊の北涼の都・姑臧を落として、華北のすべてを支配下に収めた。西晋の崩壊から130年あまり続いた分裂に、ここで区切りがつく。南の宋と北の魏が向き合う南北朝の時代が、ここから始まる。
平城の北魏は、なお遊牧の色が濃い王朝だった。皇帝は季節ごとに北の草原へ出て狩りをし、軍の中核は鮮卑の騎兵が占めた。一方で、国を治める文書の仕事には漢人の名族が欠かせない。征服者と被征服者が、互いを必要としながら警戒し合う関係が、この王朝の百年を通じて続いた。

統一の後、北魏は遊牧の王朝から中国の王朝へと形を変えていった。太武帝は漢人の名族・崔浩を重く用いたが、崔浩が編んだ国史が拓跋氏の過去を飾らずに書いたとして怒りを買い、450年に一族ともども処刑された。太武帝はまた道教に傾き、446年には仏教を弾圧した(太武帝の廃仏)。
次の文成帝は仏教を復興し、460年から都の西の崖に巨大な仏像を彫らせた(雲岡石窟の造営)。歴代の皇帝の姿を仏に重ねたとされる。

5世紀後半、馮太后のもとで大きな改革が進んだ。485年の均田制は、国が農民に土地を割り当て、死ねば返させる仕組みである。有力な豪族が土地と人を抱え込むのを抑え、国が農民から直接税を取れるようにした。翌年には村を5家・25家・125家の単位で束ねる三長制を敷いた。均田制はかたちを変えながら隋と唐に引き継がれ、日本の班田収授にもつながっていく。
北魏の仏教の姿は、海を越えて日本にも届いた。法隆寺の釈迦三尊像に見られる、面長の顔と左右に広がる衣の表現は、北魏の様式が朝鮮半島を経て伝わったものとされる。華北を統一した遊牧の王朝が育てた美術が、飛鳥の寺に形を残していることになる。

改革を最後まで押し進めたのが孝文帝だった。494年に都を洛陽へ移し、鮮卑の服装と言葉を朝廷で禁じ、拓跋の姓を元に改めさせた(孝文帝の洛陽遷都と漢化)。支配する側が、自分から同化を選んだことになる。
新しい都の洛陽には寺が建ち並んだ。都の寺院を書き留めた『洛陽伽藍記』は、その数を千を超えると記している。龍門の石窟の造営もこの頃に始まる。雲岡の力強い仏から、細身で衣のひだを長く垂らした優美な仏へと、姿も変わっていった。
その陰で、北の辺境を守る六つの軍鎮に残された鮮卑の兵たちは、出世の道を絶たれ、身分も下がっていった。かつては国の柱だった彼らが、都の貴族からは田舎の兵卒と見下されるようになる。523年、その不満が六鎮の乱となって噴き出した。
乱の中で実権を握った将軍爾朱栄は、528年、洛陽の近くで皇族と朝廷の高官を大量に殺した。数は二千人とも伝えられる。漢化した都の貴族と、置き去りにされた辺境の軍人の溝が、血で埋められた事件だった。北魏は534年に東魏と西魏に分かれる。しかし西魏から北周、そして隋の中国再統一へと続く系譜をたどると、隋と唐を立てた支配層は、この北魏の軍人たちの流れをくんでいた。