できごと

アヘン戦争

First Opium War
1840年 – 1842年
期間を持つできごと重要度 5
アヘン戦争に関わる図版:Destroying Chinese war junks, by E. Duncan (1843)
Destroying Chinese war junks, by E. Duncan (1843) Wikimedia Commons Edward Duncan · Public domain

概要

清が英国に敗れ、香港を割いた。この敗北の報が、日本に開国の危機感をもたらす。

場所

南京
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省

本文

18世紀のイギリスでは、茶を飲む習慣が上流から庶民にまで広がった。その茶は中国からしか手に入らない。清は外国との貿易を広州一港に限り、決まった商人の組合(公行)を通してしか取引を許さなかった。中国はイギリスの毛織物をほとんど必要とせず、イギリスは茶の代金を銀で払うしかなかった。1793年にイギリスが送った使節マカートニーは、貿易の拡大を求めたが、乾隆帝に、我が国にはあらゆるものがあり、外国の品を必要としない、と退けられている。

銀の流出を止めるために、イギリスはインドに目をつけた。東インド会社はベンガル地方で阿片の栽培と製造を独占し、それを民間の商人に売った。商人たちは阿片を中国の沿岸へ運び、密輸で売りさばいた。清は阿片を禁じていたが、役人は賄賂で目をつぶった。1830年代の末には、中国に流れ込む阿片は年に4万箱にも達したとされる。イギリスから中国へ茶の代金の銀が流れていた向きが逆になり、今度は中国から銀が流れ出した。中国の茶、インドの阿片、イギリスの綿製品が、三角形にめぐる仕組みである。

道光帝の朝服姿を描いた肖像画(清代)
道光帝の朝服姿を描いた肖像画(清代)Wikimedia Commons Annonymous Qing Dynasty Court Painter · Public domain

中国では、阿片の中毒が役人や兵士、庶民の間に広がった。銀が流れ出したために銀の値が上がり、銅銭で暮らして銀で税を払う農民の負担は重くなった。清の朝廷では、阿片を合法にして税をとるべきだという意見と、厳しく禁じるべきだという意見が対立した。道光帝は後者をとり、1839年、湖広総督の林則徐を欽差大臣として広州に送った。

林則徐は外国商館を封鎖し、イギリス商人が持っていた阿片2万箱あまりを差し出させた。重さにして1千トンを超える。林はこれを広州の近くの虎門の浜で、塩と石灰を混ぜて溶かし、海に流して処分した。さらに、阿片を扱わないと誓う証文を出さない商人には、取引を許さないとした。イギリスの貿易監督官エリオットは商人たちを連れてマカオ、さらに香港の沖へ退いた。

林則徐の肖像
林則徐の肖像Wikimedia Commons Lam Qua · Public domain

イギリス政府は、自国民の財産を奪い、自由な貿易を妨げたとして艦隊を送ることにした。1840年4月、イギリス議会では、政府の対中政策を非難する野党の動議が出された。若い議員のグラッドストンは、これほど不正で、恥ずべき戦争を知らない、と演説した。動議は賛成262、反対271で否決された。9票差である。政府はこの結果を受けて、そのまま遠征を進めた。

1840年の夏、イギリスの艦隊は中国の沿岸に現れ、舟山島を占領し、北上して天津に近い海まで迫った。清の水軍は木造の帆船で、イギリスの蒸気船や大砲にはまるで歯が立たなかった。とくに鉄で造られた蒸気船ネメシス号は、浅い川にも入り込んで清の砲台や船を次々に沈めた。清の朝廷は林則徐を罷免し、新疆のイリへ流した。

パーマストン子爵(1855年)
パーマストン子爵(1855年)Wikimedia Commons Francis Cruikshank · Public domain

戦いは2年にわたった。1842年、イギリス軍は長江をさかのぼり、大運河との交わる要衝の鎮江を攻めた。ここでは満州人の駐屯兵が激しく抵抗し、落城の際には多くの兵とその家族が自ら命を絶ったと伝えられる。南京の目の前までイギリス軍が迫ると、清は講和に応じた。

広州の郊外の三元里では、1841年、イギリス兵の略奪に怒った村人たちが集まってイギリス軍を取り囲んだ。小さな衝突だったが、後の中国では、民衆が外国の侵略に立ち向かった最初の例として語り継がれることになる。

川鼻海戦(1839年11月3日)
川鼻海戦(1839年11月3日)Wikimedia Commons Miller · Public domain

8月、南京の近くの長江に浮かぶイギリス軍艦の上で、南京条約が結ばれた。清は香港島を割譲し、広州・福州・廈門・寧波・上海の五港を開き、多額の賠償金を払い、公行を廃止した。翌年の追加の取り決めで、関税の率は両国で協定して決めることになり、清は自分で関税を決められなくなった。イギリス人が罪を犯してもイギリスの領事が裁くこと、他の国に与えた特権はイギリスにも及ぶことも認めた。アメリカとフランスも、まもなく同じような条約を結んだ。以後の一連の条約は、中国で「不平等条約」と呼ばれる。

奇妙なことに、南京条約には阿片という言葉がどこにも出てこない。阿片の密輸はその後も続き、正式に合法とされたのは、さらに十数年後のアロー戦争(第二次アヘン戦争)の後である。

この戦争を、日本は情報として受け取った。長崎に来るオランダ船や中国船がもたらす報告で、幕府は清の敗北を詳しく知った。1842年、幕府は外国船を見つけ次第打ち払えという命令を改め、燃料や水を求める船には与えて帰らせることにした。林則徐が集めた資料をもとに魏源がまとめた世界地理の書『海国図志』は日本にも渡り、佐久間象山ら多くの知識人に読まれた。隣の大国が負けたという事実が、その十数年後、黒船来航のときの幕府の対応を決めている。

黒船来航に関わる図版:UB Maastricht - Heine 1856 - Perry Commissionarissen
黒船来航Wikimedia Commons Wilhelm Heine · Public domain

中国では、この戦争の後、銀の流出と重い税に苦しむ人々の間で不満が高まり、1851年に始まる太平天国の乱へとつながっていく。香港は155年にわたってイギリスの植民地となり、中国に返されたのは1997年のことだった(香港返還)。

動画(3)

166 アヘン戦争と南京条約 世界史20話プロジェクト第17話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第166講「アヘン戦争と南京条約」
【世界史⑨/10】恐怖のアヘン戦争!ラストエンペラーの運命は?【2019年版】中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY2019年版世界史の第9回。アヘン戦争から清の滅亡まで
戦慄のアヘン戦争 〜ドラッグに揺れるアジア情勢とある幕末志士の開眼〜【COTEN RADIO #262】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIO日露戦争の前史として、アヘン戦争が日本に与えた衝撃を扱う

出典(6)

ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之 訳) 『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』第16章 拡大するパイという資本主義のマジック
ウィリアム・H・マクニール(増田義郎、佐々木昭夫 訳) 『世界史』第IV部 地球規模のコスモポリタニズムの始まり(1850年〜)
チャールズ・C・マン(布施由紀子 訳) 『1493 世界を変えた大陸間の「交換」』第2部(中国と銀)
イマニュエル・ウォーラーステイン(川北稔 訳) 『近代世界システム』第IV巻(外部だった中国が周辺に組み込まれる)
ウィリアム・バーンスタイン(鬼澤忍 訳) 『交易の世界史 シュメールから現代まで』第9章(茶とアヘン)
アンドレ・グンダー・フランク(山下範久 訳) 『リオリエント アジア時代のグローバル・エコノミー』第5章

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