張作霖
概要
遼寧の貧農の子。馬賊。日露戦争で日本に使われ、清の軍に入れられ、辛亥で奉天を取った。「東北王」。日本と組み、日本を使い、日本に使われた。1924年、北京を取り、1927年、大元帥。北伐に負けて帰る途中、日本に殺された。息子学良が国民政府についた。「満洲の日本の同盟者を、日本が殺した」。
関わったできごと(2)
張作霖爆殺事件AD1928年6月4日 · 殺された満洲事変AD1931年9月18日 · 3年前に殺された本文
張作霖は、1875年3月19日、遼寧の海城の貧しい農家に生まれた(生年には異説がある)。父は博打のもめごとで殺されたと伝えられる。若い頃は獣医の見習いなどをして暮らし、正規の教育はほとんど受けていない。

清朝末の満洲は、官の力が及ばず、馬賊が横行していた。張作霖は1890年代、村を守る代わりに金を取る自警団の頭になり、やがて一帯で名の知れた馬賊の首領となった。1902年、清の地方官に「帰順」し、手下ごと官軍の部隊に組み入れられた。馬賊を討つ側に回ったのである。
1904年、満洲を戦場に日露戦争が起きた。張作霖はロシアと日本の双方と関わりを持ち、のちに日本の側に協力したとされる。日本軍にスパイの疑いで捕まり処刑されかけたところを助けられた、という逸話も伝わるが、細部は確かでない。

1911年の辛亥革命では、奉天で革命派を抑え込み、清朝の総督に重く用いられた。中華民国が成ると袁世凱にとり入り、1916年に奉天の督軍となった。1918年には東三省(奉天・吉林・黒龍江)の巡閲使となって満洲全体を握り、「東北王」と呼ばれた。
満洲には、関東州と南満洲鉄道を持つ日本と、北の東清鉄道を持つロシアの利権が入り組んでいた。張作霖は日本から借款や武器を受け、日本人の顧問を置いた。日本の陸軍は、彼を満洲の利権を守る協力者とみなしていた。だが張は言いなりにはならなかった。満鉄と競う鉄道を自前で敷こうとし、港を整え、大規模な兵器工場である奉天兵工廠を築き、東北大学を開いた。日本の力を借りて自分の力を蓄えるのが、彼のやり方だった。

張作霖の野心は満洲の外に向かった。1920年、直隷派と組んで安徽派の段祺瑞を倒した(安直戦争)。1922年、今度は直隷派の呉佩孚と戦って敗れ、満洲に退いて東三省の自治を宣言した(第一次奉直戦争)。1924年の第二次奉直戦争では、直隷派の馮玉祥が北京で寝返り、張作霖が勝った。奉天軍は長江下流まで勢力を伸ばした。1925年末には配下の郭松齢が反旗を翻して奉天に迫ったが、関東軍が郭軍の進路を妨げたこともあって鎮圧した。
1927年6月、張作霖は北京で「中華民国陸海軍大元帥」に就き、北京政府の頂点に立った。馬賊の頭が、国際的に承認された中国政府の元首になったのである。その少し前の4月、彼は北京のソ連大使館の関連施設を捜索させ、そこにかくまわれていた共産党の創設者の一人、李大釗らを捕らえて絞首刑にしている。

1928年、蒋介石の国民革命軍が北伐を再開し、北京に迫った。5月には山東で日本軍と北伐軍が衝突した。日本の田中義一内閣は張作霖に、満洲へ退けば北伐軍を満洲に入れさせないと伝えた。張作霖は6月3日、特別列車で北京を発った。
6月4日早朝、列車が奉天郊外の皇姑屯、満鉄の線路が京奉線の上を交差する地点に差しかかったとき、仕掛けられた爆薬が爆発した(張作霖爆殺事件)。張作霖は重傷を負い、その日のうちに死んだ。53歳だった。死は数日のあいだ伏せられた。爆破は、関東軍の参謀河本大作らが、張作霖を除いて満洲を直接押さえるきっかけを作ろうと仕組んだものだった。

結果は逆になった。後を継いだ長男の張学良は、父を殺した日本と手を結ばず、1928年の暮れ、満洲の旗を国民政府の青天白日旗に替えた。日本に協力してきた満洲の主を日本の軍人が殺し、満洲は国民政府の側についたのである。関東軍はその3年後、柳条湖で再び鉄道を爆破して満洲全土を占領する(満洲事変)。張学良は1936年、西安事件で蒋介石を監禁し、内戦の停止を迫ることになる。