桓温の北伐
概要
東晋の将軍が三度北へ攻め、一度は長安の郊外まで来た。関中の老人が「王師が来るとは」と泣いた。取れずに帰り、その名声で皇帝を廃し、自分が皇帝になる寸前で死んだ。「男子たるもの、名を後世に流せないなら、悪名でも残せ」。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
桓温AD312年–AD373年 · 将軍本文
316年、匈奴の劉氏が建てた漢(前趙)の軍によって西晋は滅び、華北は五胡十六国の時代に入った。翌年、皇族の司馬睿が江南の建康で即位し(東晋の成立)、晋は長江の南に移った。北から逃れてきた貴族たちは、いつか中原へ帰ることを口にしつづけたが、実際には江南に根を下ろし、北へ攻めることには腰が重かった。失われた都の洛陽と長安を取り戻すことは、東晋にとって名目としては果たすべき務めであり、それを本気で果たそうとする者は、同時に朝廷の中で大きすぎる力を持つ者でもあった。
桓温は、その両方を体現した将軍である。若くして長江の中流、荊州の軍権を握り、347年には四川の成漢を攻め滅ぼして蜀の地を晋に取り戻した。これで名声を得た桓温は、北へ目を向ける。354年、彼は荊州の兵を率いて北上し、氐族の苻健が関中に建てたばかりの前秦を攻めた。これが第一次の北伐である。藍田で前秦の軍を破り、長安の東、灞上まで進んだ。

このとき、関中の年寄りたちが牛と酒を持って道ばたに出迎え、泣きながら、生きているうちに再び官軍を見られるとは思わなかった、と言ったと『晋書』は記す。西晋が滅んでから四十年近くがたっていた。同じころ、王猛という無名の男が粗末な服のまま陣を訪れ、虱をつぶしながら天下の情勢を論じたという逸話も伝わる。桓温が、なぜ関中の人々は自分のもとへ集まらないのか、と問うと、王猛は、あなたは長安を目の前にしながら川を渡らない、人々はあなたの本心が分からないのだ、と答えたとされる。桓温は答えなかった。
桓温は、関中の麦が実るのを待ち、それを兵糧にするつもりだった。しかし前秦は先に麦を刈り取って畑を空にし、晋の軍は食べ物に詰まった。白鹿原の戦いで前秦の軍に敗れると、桓温は関中の住民の一部を連れて引き揚げた。王猛は誘われても南へは行かず、のちに苻堅に仕えて前秦を強国に育てる(前秦の華北統一)。
356年の第二次の北伐では、羌族の姚襄を伊水で破って洛陽に入り、荒れていた西晋の皇帝たちの陵墓を修めて祭った。桓温は朝廷に都を洛陽へ戻すよう求めたが、江南に落ち着いた貴族たちは応じない。桓温が軍を返すと、洛陽はやがてまた北の勢力の手に落ちた。取ることはできても、守る仕組みが無かったのである。北伐の途中、若いころに自分が植えた柳が大きく育っているのを見て、木でさえこうなのだ、人が老いるのはどうしようもない、と嘆いて涙を流したという話は、『世説新語』に収められて名高い。
369年、桓温は5万の兵で鮮卑の前燕を攻めた。第三次の北伐である。水路で兵糧を運びながら枋頭まで進んだが、日照りで運河の水が干上がり、船が進めなくなった。退く途中、前燕の名将慕容垂に追撃され、3万の兵を失ったとされる。桓温の生涯で最大の敗北だった。
この敗北で落ちた威信を取り戻すため、桓温は朝廷の中に向かった。371年、皇帝の司馬奕を、子を作れない体で、後宮の子は別の男の子だと言い立てて廃し、会稽王の司馬昱を簡文帝として立てた。簡文帝は桓温に会うたびにおびえ、翌年に亡くなった。その遺詔は、桓温に国の政を委ねる言葉を含んでいたが、重臣の王坦之が書き改めさせたと伝えられる。373年、桓温が都の近くの新亭に兵を伏せ、謝安と王坦之を呼び出したとき、王坦之は青ざめたが、謝安は落ち着いて、諸侯は四方を守るものなのに、なぜ壁の後ろに兵を置くのか、と問い、桓温は笑って兵を退けたという。
桓温は最後に、皇帝への位を譲られる前段とされる九錫の礼を朝廷に求めた。謝安らは文書の書き直しを何度も命じて時間を稼ぎ、その年のうちに桓温は病で亡くなった。62歳とされる。名を後の世に香らせることができないなら、悪名を後世に残すのも悪くない、という意の言葉は、桓温の口ぐせとして『晋書』に記されている。
桓温の死によって東晋の簒奪は先送りになった。謝安はのちに前秦の大軍を淝水の戦いで退ける。しかし桓温の子の桓玄は403年に皇帝を名乗り、翌年、北府の軍人劉裕に倒された。その劉裕がやがて東晋を終わらせることになる(劉裕の宋建国)。三度の北伐は、中原の回復という名目がどれほど強く人を動かし、同時にそれを担う者を朝廷にとってどれほど危うい存在にしたかを示している。『晋書』は桓温を、先に反乱を起こした王敦と同じ巻に収めた。