文景の治
概要
呂后の一族が滅ぼされ、代王が皇帝に迎えられた。文帝は肉刑を廃し、田租を30分の1にし、自分の陵に金銀を入れなかった。息子の景帝が続けた。40年で倉が満ち、銭の紐が腐った。次の武帝が、それを全部使う。
場所
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安
関わった人(1)
文帝(漢)BC203年–BC157年 · 文帝本文
紀元前195年、漢を開いた劉邦が死んだ。跡を継いだ恵帝は若く病弱で、実権は母の呂后が握った。紀元前188年に恵帝が死ぬと、呂后は幼い皇帝を立てて自ら政治を行い、甥たち呂氏一族を次々に王に封じた。劉邦は生前、劉氏でない者を王にしてはならないと功臣たちに誓わせたと伝えられる。呂后はその誓いを破ったことになる。
紀元前180年、呂后が死ぬと、劉邦以来の功臣である周勃と陳平が動いた。都の兵を掌握して呂氏一族を皆殺しにし、さらに在位中の幼い皇帝も、恵帝の実の子ではないとして退けて殺した。では誰を皇帝に迎えるか。重臣たちは候補を一人ずつ吟味した。斉王は母方の一族が強く、第二の呂氏になりかねない。淮南王は若すぎる。最後に残ったのが、北の辺境の代国の王、劉恒だった。劉邦の子で、母の薄氏は控えめで慎み深い人として知られていた。外戚が暴れる心配が少ない、というのが選ばれた理由である。

迎えの使者が来たとき、代王の側近たちは罠を疑った。代王が亀の甲で占わせると、「大横」という兆しが出て、天王になるという言葉が添えられていた。代王が、自分はすでに王だが、と言うと、占い師は、天王とは天子のことです、と答えたという。代王は慎重に人を送って都の様子を確かめてから長安に入り、即位した。これが文帝(漢)である。
文帝の政治は、秦以来の厳しい法を緩めることから始まった。即位した年には、罪人の家族まで連座して罰する法を廃した。続いて、皇帝を誹謗したり不穏な言葉を口にしたりした者を罰する罪を廃し、臣下や民が政治を批判する道を開いた。
紀元前167年には、肉刑を廃した。きっかけは一通の上書だった。斉の国の役人で医者でもあった淳于意が罪に問われ、肉体を傷つける刑を受けることになった。娘の緹縈が父に従って長安へ上り、自分が官の奴婢になるかわりに父の刑を許してほしいと訴えた。一度切られた体は二度と元に戻らず、罪を悔いて改めようとしても道がない、という訴えだった。文帝はこれに心を動かされ、入れ墨、鼻そぎ、足切りの刑を廃して、髪をそり首かせをつけての労役や、鞭打ちに置き換えた。ただ、鞭打ちの数が多すぎて受刑者が死ぬことが多く、のちに景帝がその回数を大きく減らしている。
税も軽くした。紀元前168年に田租を収穫の30分の1に半減し、翌年にはこれを廃止した。田租の無い時代は十年あまり続き、景帝の即位後に30分の1で復活して、これが漢の定率となった。
文帝自身の暮らしぶりについての逸話も多い。宮中に露台という高殿を建てようとして職人に見積もらせると、百金かかるという。百金は中流の家十軒ぶんの財産にあたると聞いて、文帝は造るのをやめた。寵愛した慎夫人にも裾を引きずる衣を着せず、帳に刺繍をさせなかった。自分の陵である霸陵は山の形をそのまま生かして盛り土をせず、副葬品は瓦器とし、金銀で飾ることを禁じたと伝えられる。遺詔では、手厚い葬儀は民の暮らしを損なうとして、喪を短く切り上げ、民が婚礼をしたり酒や肉を口にしたりするのを禁じないよう命じた。
外に対しても、戦うより和を選んだ。北の匈奴とは、皇族の娘を嫁がせ贈り物を送る和親を続けた。紀元前166年に匈奴の大軍が侵入し、その偵察の騎兵が都の近くまで迫ったときも、追い払ったあとは深追いしなかった。南では、のちに漢に滅ぼされる南越(南越の征服)の王趙佗が皇帝を名乗っていた。文帝は趙佗の故郷にある先祖の墓を守らせ、親族を厚遇したうえで、使者に丁重な手紙を持たせた。趙佗は皇帝の称号を取り下げ、漢の臣下の礼をとった。
もちろん、静かな時代にも火種はあった。文帝は民間での銅銭の鋳造を許したため、銅山を持つ呉の王などが莫大な富を蓄えた。若い学者賈誼は、諸侯王の力が強すぎることを繰り返し警告した。文帝は紀元前157年に在位23年で死に、子の景帝が継いだ。景帝が諸侯の領地を削り始めると、紀元前154年に呉・楚など七つの国が反乱を起こした(呉楚七国の乱)。景帝は削封を進言した晁錯を斬って反乱軍をなだめようとしたが、反乱は止まらず、将軍周亜夫が3か月ほどでこれを鎮めた。これ以後、諸侯王の力は大きく削がれ、皇帝の権力が固まった。
文帝と景帝の約40年を、後の人は「文景の治」と呼んだ。司馬遷は『史記』平準書に、この時代が終わるころには、都の銭は積み上がって銭を通す紐が腐り、数えることもできず、国の倉の穀物は年々積み重なって外にあふれ、腐るほどだった、と書いた。この政治の背後には、無理をせず民を休ませるという黄老の思想があったとされる。
その蓄えを使ったのが、景帝の子の漢の武帝である。武帝は匈奴との大戦争に踏み切り、西域へ使者を送り(張騫の西域派遣)、儒学を国の学問に据えた(儒学の官学化)。半世紀を超える治世で、文景の時代に満ちた倉は空になり、塩や鉄の専売で財政を補うことになった。文景の静けさがなければ武帝の膨張はなく、武帝の膨張がなければ文景の時代は、ただの穏やかな40年として記憶されたかもしれない。もっとも、文帝の節倹や仁政を伝える話の多くは後の儒者の筆を通っており、理想化されている面もあることは差し引いて読む必要がある。