八王の乱

概要
晋の皇帝が暗愚で、皇后賈氏が皇太后の一族を殺し、皇族が皇后を殺し、皇族同士が16年殺し合った。匈奴と鮮卑の兵を雇って戦い、その兵が国を取る。五胡十六国はここから始まる。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
本文
266年、司馬炎は魏の皇帝から位を譲られて晋を建て(司馬炎の晋建国)、280年には呉を滅ぼして、三国の鼎立の分裂を終わらせた(晋による統一)。司馬炎、のちの武帝は、魏が皇族の力を抑えすぎたために、自分たち司馬氏に国を奪われたと考えた。そこで一族の者を各地の王に封じ、兵を持たせて、皇室の守りにしようとした。同じころ武帝は、天下が統一されたとして、州や郡の兵を大幅に減らしている。中央の力が弱まる中で、兵を持つ王たちが残された。
290年、武帝が死に、子の恵帝が即位した。恵帝は政治の判断ができない人物だったとされる。飢饉で民が飢え死にしていると聞いて、米がないなら肉の粥を食べればよいではないかと言った、という話が『晋書』に載っている。実権をめぐって、まず皇后の賈南風と、武帝の皇后の父で恵帝の後見役だった楊駿とが争った。

291年、賈后は楚王司馬瑋らと組んで楊駿を殺し、その一族を滅ぼした。楊駿の後に政治を担った汝南王司馬亮と重臣の衛瓘を、こんどは楚王に殺させ、そのうえで楚王を、勝手に重臣を殺した罪で処刑した。賈后はその後しばらく政治を握り、有能な臣下を用いて安定した時期もあった。しかし賈后には男子がなく、別の妃が産んだ皇太子司馬遹を除こうとした。299年に皇太子を廃し、300年に殺させる。
これをきっかけに、趙王司馬倫が兵を挙げて賈后を殺した。趙王は翌301年、恵帝を退けて自ら皇帝の位に就く。すると斉王司馬冏、成都王司馬穎、河間王司馬顒が兵を挙げて趙王を倒し、恵帝を復位させた。こんどは斉王が政治を独占し、302年、長沙王司馬乂に殺された。長沙王は、成都王と河間王の軍に都の洛陽を囲まれ、304年、東海王司馬越に捕らえられて河間王の将に引き渡され、火あぶりにされたと伝えられる。その後は成都王・河間王と東海王が、恵帝の身柄を奪い合って洛陽、鄴、長安のあいだを引き回した。306年、東海王越が勝ち残り、成都王も河間王も殺された。恵帝は東海王のもとに戻されたが、まもなく餅を食べた後に急死した。毒殺だと噂された。この16年の争いで殺し合った主な皇族8人を数えて、八王の乱と呼ぶ。

争いのあいだ、王たちは兵を補うため、北方や西方の異民族の兵を雇い入れた。晋の領内や辺境には、匈奴、鮮卑、羯、氐、羌などの人々が住み、その多くは晋の役人に差別され、使役されていた。成都王穎は、晋に仕えていた匈奴の名門の劉淵に兵を集めさせた。劉淵は304年、自らの民を率いて独立し、漢王を名乗った。匈奴の王族はかつて漢の皇帝の娘を娶ったことから劉の姓を名乗っており、劉淵は漢の後継者を称したのである。これが五胡十六国の時代の始まりとされる。北方の幽州では、晋の将軍王浚が鮮卑の騎兵を使って成都王を攻めた。
八王の乱が終わっても、戦いは収まらなかった。勝ち残った東海王越は、劉淵の軍や各地の反乱に追われ、311年、出陣の途中で病死した。越の棺を守って東へ向かう10万を超える将兵と貴族たちは、劉淵の部下で羯族の出身の石勒に追いつかれ、ほとんどが殺された。石勒は越の棺を焼き、天下を乱したのはこの者だから、天下のためにその骨を焼くのだと言ったと伝えられる。同じ311年、劉淵の子の劉聡の軍が洛陽を落とし、懐帝を捕らえた。宮殿は焼かれ、多くの人が殺された。この年の元号をとって「永嘉の乱」と呼ばれる。

316年には長安の愍帝も降伏し、晋は滅びた。翌317年、皇族の司馬睿が江南の建康(いまの南京)で晋を再興する(東晋の成立)。北から多くの貴族や民が長江を渡って南へ逃れ、江南の開発が進むきっかけになった。華北では、匈奴、羯、鮮卑、氐、羌の人々が建てた国々が興っては滅び、439年に鮮卑の北魏がまとめるまで争いが続く(北魏の華北統一)。中国が再び一つになるのは、589年の隋の統一を待たなければならない(隋の中国再統一)。
八王の乱は、皇族の内紛が周辺の人々を戦いに引き入れ、国そのものを崩してしまった例として語られる。皇族に兵を持たせて王朝を守るという武帝の策は、その皇族どうしが争うことで、逆に王朝を滅ぼす原因になった。