明の成立
概要
紅巾の乱から出た貧農の子が、南京で皇帝になり、元を北へ追った。モンゴルの100年が終わり、漢人の王朝が戻る。皇帝は宰相を廃し、功臣を数万人殺し、農民を土地に縛る国を作った。
場所
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省
関わった人(1)
朱元璋(洪武帝)AD1328年10月21日–AD1398年6月24日 · 皇帝本文
1368年1月23日、南京で、一人の男が皇帝の位についた。国の名を大明、年号を洪武と定めた。男の名は朱元璋。貧しい農民の子として生まれ、両親を飢饉で失い、托鉢の僧として各地をさまよった男だった。この年の秋、明の軍は元の都、大都(いまの北京)に入り、モンゴルの皇帝は北の草原へ去った。チンギス・ハンの孫のフビライ・ハンが中国全土を治めてから、およそ100年。漢人の王朝が戻ってきた。
朱元璋(洪武帝)は1328年、淮河の流域の濠州(いまの安徽省鳳陽)の貧しい小作農の家に生まれた。1344年、この地方を旱魃とイナゴの害、そして疫病が襲い、父と母と兄が数か月のうちに相次いで死んだ。棺を買う金もなく、遺体を布に包んで埋めるのがやっとだったという。17歳の朱元璋は近くの寺に入って小僧になったが、寺も食べ物に困り、彼は托鉢をしながら淮河の流域をさまよい歩いた。

元の支配は、このころ大きく揺らいでいた。宮廷では帝位をめぐる争いが続き、紙幣の乱発で物の値段は上がった。黄河はたびたび氾濫し、その修理に大勢の農民が駆り出された。1351年、弥勒仏がこの世に現れて世を救うと説く白蓮教の信徒たちが、頭に赤い布を巻いて立ち上がった。紅巾の乱である。反乱は華北と華中に燃え広がった。
1352年、朱元璋は濠州で挙兵した紅巾軍の首領、郭子興のもとに身を投じた。たちまち頭角を現し、郭子興に気に入られて、その養女の馬氏をめとった。のちの馬皇后である。郭子興の死後、朱元璋はその軍を受け継ぎ、1356年には長江の南岸の要地、集慶を落として応天府(南京)と改め、ここを本拠にした。学者の朱升は彼に、城壁を高く築き、兵糧を広く蓄え、王を名乗るのは急ぐな、と説いた。朱元璋はこの言葉どおり、周りの群雄が王や皇帝を名乗って争う間、力を蓄えた。

長江流域には、二人の強敵がいた。上流の陳友諒と、下流の蘇州を本拠とする張士誠である。1363年、朱元璋は鄱陽湖で陳友諒の大艦隊と1か月以上にわたって戦い、火攻めでこれを破った。陳友諒は矢に当たって死んだ。1367年には蘇州を囲んで張士誠を捕らえた。紅巾軍が名目上の主として担いでいた「小明王」韓林児は、1366年、朱元璋が迎えにやった船で長江を渡る途中、船が沈んで死んだ。朱元璋の部下が沈めたと考えられている。
江南を固めた朱元璋は、1368年の正月、皇帝の位についた。国の名「明」の由来ははっきりしないが、紅巾の乱で信じられていた「明王が世に現れる」という教えや、小明王の名に関わるとする説がある。即位すると、朱元璋は一人の皇帝の在位中は年号を一つしか使わない、一世一元の制度を定めた。それまでの皇帝は、吉事や凶事のたびに年号を改めていた。明と清の皇帝が「洪武帝」「永楽帝」のように年号で呼ばれるのは、このためである。日本も明治の改元で、この制度にならった。

その年の8月、将軍徐達の率いる明軍が大都に入った。元の皇帝トゴン・テムルは戦わずに北へ逃れた。元は滅んだのではなく、モンゴル高原に退いて北元として続いた。明はこの後、北のモンゴルとの戦いに長く悩まされることになる。2代あとの永楽帝は都を北京に移し、自らモンゴル高原に遠征した。1449年には、皇帝がモンゴルの捕虜になる土木の変さえ起きた。
洪武帝は、自分が築いた国を誰にも奪わせまいとした。1380年、宰相の胡惟庸が謀反を企てたとして処刑され、多くの官僚が連座して殺された。洪武帝はこれを機に、宰相の役所である中書省を廃止し、行政を担う六部を皇帝が直接動かすことにした。そして子孫に、今後宰相を置くことを議論する者があれば厳罰に処せ、と命じた。皇帝は毎日、膨大な数の上奏文を自分で読んで裁いた。1393年には、北方の戦いで功を立てた将軍の藍玉が謀反の罪で処刑され、これにも大勢が連座した。二つの事件で殺された者は、合わせて数万人にのぼったと伝えられる。建国の功臣は、ほとんど生き残らなかった。

官僚の監視には、皇帝直属の錦衣衛が使われた。朝廷では、皇帝の怒りに触れた大臣を、ほかの官僚の見る前で棒で打つ廷杖が行われた。打たれて死ぬ者も出た。洪武帝の統治は、貧しい農民の出身らしく、民を苦しめる役人への激しい怒りに貫かれていた。汚職をした役人の皮を剥いで、中に草を詰めて役所に置いた、という話まで伝わる。
農村には、110戸を一つの里とする里甲制を敷き、戸ごとの人数と財産を記した賦役黄冊と、土地の形と持ち主を描いた魚鱗図冊を作らせて、税と労役を確実に取り立てた。民は農民、職人、軍人などの戸に分けられ、その身分は代々受け継がれた。海外との民間の貿易を禁じる海禁を定め、外国との行き来は、朝貢という形の国家どうしの交易に限った。のちに鄭和の南海遠征が大艦隊で海を渡ったのも、この朝貢の仕組みの中でのことだった。科挙も再開され、儒教の経書の解釈を問う試験で官僚が選ばれた。

洪武帝は自ら『大誥』という法令と説教の書を書き、家ごとに一冊ずつ備えさせた。これを持っている者は、罪を犯しても刑を一段軽くする、とまで定めた。そして『皇明祖訓』を著し、自分の定めた制度を子孫が一字一句変えてはならないと命じた。
1398年、洪武帝は71歳で死んだ。跡を継いだ孫の建文帝は、各地に封じられていた叔父たちの力を削ろうとして、北京の燕王の反乱を招き、帝位を奪われた。燕王が永楽帝である。

明は1644年まで、276年続いた。その骨格は、洪武帝が最初の30年で作ったものだった。宰相のいない皇帝の独裁、民を身分と土地に縛る里甲制、海を閉ざす海禁。それらは明の安定を支えたが、時代が変わっても簡単には改められず、やがて明の重荷になっていった。