できごと

衛青の河南奪回

Wei Qing recovers the Henan region
BC127年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民前漢フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民スキタイ匈奴テュルク系の諸部族月氏タイ系の人びとバクトリアマレー系の人びとツングース系の人びとモン・クメール系の人びとシャンシュン王国Min-YueアイヌNan-Yue鉄器時代の首長制社会BC127年オルドス
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC127年の版図を描いています(18勢力)。

概要

皇后の弟の騎奴が将軍になり、黄河の湾曲の内側を匈奴から取った。長安の北の脅威が消え、朔方郡が置かれ、10万人が移住した。以後7回出撃し、負けなかった。甥の霍去病が河西を取る6年前。

場所

オルドス
39.60°N 109.80°E · 中国・内モンゴル

関わった人(1)

衛青?–BC106年 · 将軍

本文

黄河は、上流から北へ大きく曲がり、東へ流れてから南へ折れ返る。この巨大な「几」の字形の湾曲に囲まれた土地を、漢の人々は黄河の南という意味で「河南」と呼んだ。いまのオルドスである。草原と砂地の広がるこの土地は、遊牧の民にとっては格好の牧草地であり、ここから南へ下れば、漢の都長安のある関中の平野まですぐだった。

秦の始皇帝(秦の中国統一)は、紀元前215年、将軍蒙恬に30万の兵を与えてこの地から遊牧の民を追い払い、城を築いて人を移した。だが秦が滅びると、北の草原では冒頓単于が匈奴をまとめ上げて大きな勢力となり(匈奴の統一)、河南の地も匈奴の手に戻った。漢は建国の後、匈奴に公主を嫁がせ、毎年絹や酒や米を贈る和親の約束を結んで、どうにか平和を保った。それでも匈奴の騎兵はたびたび国境を越え、紀元前166年には、長安の近くの離宮から、匈奴の襲来を告げる烽火が見えたという。

霍去病の墓から見た衛青の墓
霍去病の墓から見た衛青の墓Wikimedia Commons Gary Todd · CC0

紀元前141年に即位した漢の武帝は、この屈辱の関係を終わらせようとした。紀元前133年、国境の町馬邑に単于を誘い込み、30万の伏兵で討ち取ろうとしたが、匈奴に見破られて失敗した。和親はここで終わり、漢と匈奴の長い戦いが始まった。

この戦いで頭角を現したのが衛青である。彼の生まれは低かった。武帝の姉の平陽公主の家に仕える女と、出入りの役人との間に生まれた子で、少年のころは父の家で羊を飼わされ、異母兄弟たちに奴隷のように扱われたという。長じて平陽公主の家の騎奴、つまり主人の外出に馬で付き従う召使いになった。ところが、姉の衛子夫が武帝に見初められて後宮に入り、寵愛を受けたことで、運命が変わった。衛青は宮廷に取り立てられ、やがて軍を率いる身となった。

紀元前129年、漢は初めて匈奴の地へ打って出た。四人の将軍がそれぞれ1万の騎兵を率いて出撃したが、名将として知られた李広は敗れて捕らえられ、辛くも逃げ帰った。公孫敖は7000人を失った。ただ一人、衛青だけが草原の奥深く、匈奴が天を祭る聖地の龍城まで攻め入り、700人を討ち取って戻った。

紀元前127年、衛青は再び出撃した。彼は雲中から出て西へ進み、隴西に至る大きな迂回の道をとって、河南の地にいた匈奴の楼煩王と白羊王の背後を突いた。数千人を捕らえ、百万頭を超える牛や羊を奪い、河南の地を取り戻した。『史記』は、このとき衛青が兵を損なわずに帰還したと記している。武帝は彼を長平侯に封じた。

河南の地をどうするかで、朝廷は割れた。主父偃は、秦の蒙恬が築いた城を修復してここに郡を置けば、匈奴を退ける根拠地になると説いた。丞相の公孫弘らは、遠い荒れ地のために莫大な費用をかけるのは無駄だと反対した。武帝は築城を選び、朔方郡と五原郡を置いて、10万人もの民を内地から移り住ませた。黄河の湾曲の内側が漢のものになったことで、都の北の脅威は大きく遠のいた。のちの時代、匈奴は南の陰山の山並みを失ったことを嘆き、そこを通るたびに泣いた、と漢の官僚は語っている。

衛青はその後も出撃を重ね、生涯に7度、匈奴と戦った。紀元前124年には夜襲で右賢王を破って大将軍となり、紀元前119年には、甥の霍去病と並んで砂漠の北へ攻め入り、砂嵐の中で単于の本隊を打ち破った。霍去病はこの前に河西の地を奪い(霍去病の河西遠征)、張騫が開いた西域への道(張騫の西域派遣)を漢の手にしていた。一方、この最後の遠征で道に迷って遅れた老将李広は、取り調べを受ける屈辱を拒んで自ら命を絶っている。

かつて騎奴として仕えた平陽公主は、夫を亡くしたのち、衛青を新しい夫に選んだ。衛青は紀元前106年に亡くなり、武帝の陵のそばに葬られた。だが、彼の一族の栄華は長く続かなかった。死後15年、紀元前91年の巫蠱の事件で、姉の皇后衛子夫と皇太子が死に追いやられ、衛氏は没落した。同じころ、司馬遷は衛青の伝記を含む『史記』を書き上げようとしていた。一族は滅んだが、衛青が取り戻した黄河の湾曲の内側は、その後も長く中国の歴代の王朝にとって、北の守りの要であり続けた。

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