太平天国の乱

概要
2000万人以上が死んだとされる内乱。清の衰えを決定づけた。
場所
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省
本文
洪秀全は1814年、広東省の客家の農家に生まれた。村で学才を見込まれ、一族の期待を背負って科挙を受けたが、最初の段階の試験に何度も落ちた。1837年、三度目の不合格の後に重い病に倒れ、40日ほど幻を見続けた。天に昇り、金色のひげの老人から剣を授かり、悪魔を退治せよと命じられる夢だったという。
数年後、彼は以前に広州で受け取っていたキリスト教の小冊子、中国人伝道者の梁発が書いた『勧世良言』を読み直した。そこで、あの老人は上帝(ヤハウェ)で、夢に出てきた兄はイエスだと解釈した。自分は神の次男で、イエスの弟だということになる。1843年、四度目の試験にも落ちたあとのことである。

洪秀全と、同郷の馮雲山は、広西省の山間で拝上帝会という信者の集団を作った。広西は貧しく、炭焼きや鉱山の労働者、客家と土地の住民との争いがあり、匪賊や天地会の反乱も多かった。拝上帝会は偶像を壊して回り、地元の有力者と衝突しながら数万人の集団になった。1851年1月、金田村で挙兵し、国号を太平天国とした。
太平軍は北上して湖南・湖北を進み、1853年3月に南京を落とした。南京を天京と改め、都とした。その後11年にわたって、長江の中下流域の豊かな地域を支配した。北京を目指した北伐軍も送ったが、天津の近くまで迫ったところで敗れて全滅した。

太平天国の掲げた理想は、清の社会を根本から作り変えるものだった。『天朝田畝制度』は、土地を家族の人数に応じて分け、余った収穫は共同の倉に納めると定めた。ただ、これはほとんど実行されなかったとされる。纏足と、アヘン、売春、賭博を禁じ、男女の別の軍営を作った。女性の兵や役人も置かれた。女性を対象にした試験が行われたとも伝わるが、確かな史料は乏しい。一方で、儒教・仏教・道教を偶像崇拝として否定し、孔子廟や寺院を壊した。読書人の多くは、これで太平天国を敵とみなした。
崩れたのは内側からだった。洪秀全は天京の宮殿にこもり、政治は東王の楊秀清らが握った。楊秀清は神が自分に乗り移ったとして洪秀全にも命令するようになる。1856年、洪秀全の意を受けた北王の韋昌輝が楊秀清とその一派を殺した。殺された者は数千から2万ともいわれる。その韋昌輝も殺され、有能な将軍の石達開は大軍を率いて天京を去った。これを天京事変という。のちに洪秀全の一族の洪仁玕が西洋にならった改革案を出したが、立て直しには至らなかった。
清の正規軍である八旗や緑営は、太平軍に歯が立たなかった。鎮圧を担ったのは、湖南出身の官僚の曾国藩が郷里で組織した湘軍だった。儒教の秩序を守るという大義を掲げ、同郷の読書人が将となり、農民を兵にした。のちに曾国藩の門下の李鴻章が淮軍を作り、上海では外国人が率いる常勝軍も加わった。同じ頃、清は英仏と第二次アヘン戦争を戦っており(アヘン戦争)、北京を占領されてもいる。

1864年6月、洪秀全は包囲された天京で病死した。7月、湘軍が天京を落とし、城内で大規模な殺戮が起きた。死者の総数ははっきりしないが、2000万から3000万とする推計が多く、それ以上とする見方もある。戦闘だけでなく、飢えと疫病で多くの人が死んだ。19世紀の世界で最も多くの死者を出した戦争とされる。
乱は終わったが、残ったものがある。中央の正規軍ではなく、地方の官僚が自分で集めた軍が国を救った。曾国藩や李鴻章は軍と財源を握る地方の実力者になり、彼らが洋務運動を進めた。軍を持つ地方の有力者が中央をしのぐ構図は、清の末期から民国の軍閥の時代へと続いていく。孫文は少年時代に太平天国の話を聞いて育ち、のちに洪秀全を反清の先駆けとして称えた。清にとって、この内乱は衰えを決定づけるものになった。