桓温
概要
父の仇を討ち、皇帝の娘婿になり、347年に蜀を取り、三度北伐した。「名を流せないなら悪名でも」。皇帝を廃し、九錫を求め、謝安が引き延ばしている間に死んだ。息子の桓玄が30年後に本当に皇帝を名乗り、すぐ滅んだ。
関わったできごと(1)
桓温の北伐AD354年 · 将軍本文
312年、譙国龍亢(いまの安徽省)の人、桓彝の子として生まれた。名士の温嶠が赤子の彼を見て「真の英物なり」と言い、父がその温嶠の名を取って「温」と名づけたと伝わる。生まれる前年に洛陽が、4年後に長安が異民族の手に落ち、晋の皇族は長江の南で王朝を立て直した(東晋の成立)。桓温は、北を失った王朝の子として育った。

328年、蘇峻の乱で、宣城の太守だった父は涇県を守って戦死した。県の役人江播がこの死に関わったとされる。桓温はこのとき15歳(数え)で、枕に戈を置いて寝たという。3年後に江播が死ぬと、その息子たちは仇討ちを恐れて喪の席に刀を隠していた。桓温は弔問客を装って入り、息子たちを殺した。父の仇を討った少年として、その名は一気に知られた。
明帝の娘南康長公主を妻に迎え、皇帝の婿になった。345年、長江中流の荊州の刺史となり、上流の軍事を一手に握った。2年後の347年、わずか1万ほどの兵で長江をさかのぼり、四川の成漢を攻めた。朝廷では無謀と見る者が多かったが、成都の近くで敵を破り、成漢の李勢は降った。40年ぶりに蜀が晋の手に戻り、桓温の声望は朝廷をしのぐほどになった。このとき李勢の妹を妾にしたところ、公主が刀を持って乗り込んだが、娘の落ち着いた美しさに刀を捨て、「私が見ても愛おしい」と言ったという逸話が伝わる(「我見てすら猶お憐れむ」)。後世の書物に引かれた話で、事実かどうかは分からない。
朝廷は桓温を恐れ、清談の名士殷浩を立てて北伐させたが、殷浩は大敗した。桓温はこれを弾劾して庶人に落とした。殷浩は一日中、指で空に「咄咄怪事(なんとも奇怪なことだ)」と書いていたという。北伐の主導権は桓温の手に移った(桓温の北伐)。
354年、桓温は前秦を攻めて関中に入り、長安の東の灞上まで迫った。土地の老人たちは酒や食べ物を持って迎え、「今日ふたたび官軍を見られるとは思わなかった」と泣いたという。だが麦の刈り入れを敵に先に済まされて兵糧が続かず、引き揚げた。356年には羌の姚襄を破って洛陽を取り戻し、荒れた晋の皇帝陵を修めた。369年、前燕を攻めた三度目の北伐では、途中の金城で、若いころ自分が植えた柳が太く育っているのを見て、「木ですらこうなのだ、人はどうして耐えられよう」と枝を握って泣いたと伝わる。この遠征は枋頭で慕容垂に大敗して終わった。
敗戦で揺らいだ威信を取り戻すため、側近の郗超は皇帝を替えて力を示すよう勧めた。371年、桓温は皇帝司馬奕に子を作る力がなく、子は他人の子だと言い立てて廃し、会稽王司馬昱を立てた。簡文帝である。簡文帝は桓温を恐れ、会うたびに泣いたという。翌年、簡文帝が死ぬと、桓温は自分に位を譲るか、少なくとも摂政に任じる遺詔を期待したが、そうはならなかった。
373年、桓温は兵を率いて都建康の近くの新亭に来た。朝廷は謝安と王坦之を迎えに出した。王坦之は汗を流し、手にした笏を逆さに持つほどうろたえたが、謝安は平然として、壁の後ろに兵を伏せる必要がどこにあるのかと笑って言い、桓温は兵を下げたと伝わる。桓温は次に、帝位に就く前段となる九錫の礼を求めた。謝安は詔の文案に何度も手を入れて引き延ばした。その間に桓温は病に倒れ、同じ年の7月に死んだ。数えで62歳。
桓温は自分を、西晋の末に北で戦い続けた名将劉琨になぞらえていた。北伐の途中、劉琨に仕えていた老女に会うと、老女は「よく似ておられる。ただ劉琨様の方が少し……」と細かく違いを並べ、桓温は何日も不機嫌だったと『世説新語』は伝える。同じ書には、寝床で枕を撫でながら「名を後世に流せないのなら、悪名を万年に残すのも悪くないではないか」とつぶやいた話もある。
彼が果たせなかった帝位は、末子の桓玄が引き継ごうとした。403年、桓玄は帝位を奪って楚を建てたが、翌年、劉裕に敗れて殺され、桓氏は滅んだ。北を取り戻す夢は、桓温の死から10年後の淝水の戦いで、彼が帝位への道をふさがれた相手、謝安の一族が前秦を破ることで、別の形で守られた。『晋書』は桓温を、帝位をうかがった王敦と同じ巻に収めている。北伐の英雄と、皇帝を廃した権臣。二つの顔が同じ一人のなかにある。