できごと

襄陽の攻囲

Siege of Xiangyang
AD1268年
重要度 5
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1268年の版図を描いています(32勢力)。

概要

漢水の要。南宋の北の鍵。フビライは6年囲んだ。イル・ハン国からペルシアの技師を呼び、回回砲を据えた。1273年、樊城が落ち、襄陽の呂文煥が降った。3年後、臨安。マルコ・ポーロは「私の父と叔父が砲を作った」と書いたが、彼らはまだ来ていなかった。

場所

襄陽
32.01°N 112.12°E · 中国・湖北省

関わった人(1)

フビライ・ハンAD1215年–AD1294年 · 皇帝

本文

襄陽は、長江の支流の漢水のほとりにある。北から来て南へ下る道と、漢水の水運が交わるところで、川を挟んだ向かいには樊城がある。二つの城は浮き橋で結ばれ、互いに助け合う形になっていた。13世紀の南宋にとって、ここは都の臨安から遠く離れた北の守りの要であり、ここを抜かれれば、漢水を下って長江へ、さらに長江を下って江南の豊かな地へ道が開ける。

モンゴルは、フビライ・ハンの兄モンケの代から南宋を攻めていたが、四川の山地で手間取り、モンケは1259年に陣中で死んだ。帝位をめぐる争いを経て権力を固めたフビライに、1267年、南宋から寝返った将軍劉整が献策した。劉整はもともと南宋の四川の将で、上官との確執から身の危険を感じ、1261年に守っていた城ごとモンゴルに降った人物である。まず襄陽を取れ、そのために水軍を作れ、というものである。騎馬の軍は、川と城に守られた南宋の土地では力を出し切れない。劉整は南宋の水軍の戦い方を知っていた。

『武経総要』に描かれた旋風砲(投石機)
『武経総要』に描かれた旋風砲(投石機)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1268年、将軍アジュ(阿朮)と劉整の軍が襄陽と樊城を囲んだ。守るのは呂文煥である。元の軍は力攻めをせず、城の周りに砦と長い土塁を築いて、外との連絡を断つことから始めた。鹿門山や白河口などに砦を置き、漢水にも柵を設けた。一方で劉整は軍船を造らせ、兵に水上での戦いを鍛えさせた。数千の船と7万の水兵を養ったと記録は伝える。

南宋の朝廷は、何度も救援を送った。しかし援軍は漢水の途中で元の水軍と砦に阻まれ、1269年にも、1270年代の初めにも敗れて引き返した。朝廷の実権を握っていた宰相の賈似道は、前線からの報告を皇帝に十分伝えなかったと、後の史書は厳しく書く。

1003年、ガズナのマフムードによるザランジュ要塞攻囲(ラシード・アッディーン『集史』、1314年、エディンバラ大学図書館蔵)
1003年、ガズナのマフムードによるザランジュ要塞攻囲(ラシード・アッディーン『集史』、1314年、エディンバラ大学図書館蔵)Wikimedia Commons by Rashid al-Din (707 AH, 1307 AD) · Public domain

1272年の夏、張順と張貴という二人の将が、3000人の決死隊を率いて、増水した漢水を夜に遡った。元の封鎖を突き破り、塩や布を積んで襄陽に入ることに成功したが、張順は戦いの中で死んだ。張貴は外の援軍と連絡を取ろうと再び城を出たところで捕らえられ、殺された。城内には蓄えた穀物があったものの、塩や薪、衣服の布が尽きかけていたと伝えられる。城はなお持ちこたえたが、包囲は4年を超えていた。

長い膠着を破ったのは、遠い西方から来た技術だった。フビライは、同じチンギス家の一族が治めるイランのイル・ハン国に、攻城の技師を求めた。アバカ・ハンのもとから、イスマーイールとアラーウッディーンという二人のイスラム教徒の技師がやって来た。彼らが作ったのは、長い腕木の一方に重い錘をつけ、その落ちる力で反対の端から石を投げる、平衡錘式の投石機だった。中国では「回回砲」、イスラム教徒の砲と呼ばれた。人の力で綱を引く従来の投石機より、はるかに重い石を遠くへ飛ばせた。『元史』は、百五十斤の石を飛ばし、当たるところすべてを打ち砕いたと記す。

フビライ・ハンの肖像(元代の帝王図冊)
フビライ・ハンWikimedia Commons Araniko · Public domain

1273年の初め、回回砲は樊城に向けられた。城壁と楼閣が崩れ、樊城は落ちた。守将の牛富は最後まで戦い、火の中に身を投じたと伝えられる。続いて砲は、川向こうの襄陽に向けられた。石が城の楼を打ち砕くと、城内は動揺した。元の側は、降れば命は助けると呼びかけた。2月、呂文煥は城を開いて降った。包囲の始まりから、足かけ6年がたっていた。

呂文煥は元の将となり、その後の南宋攻めで道案内の役を務めた。南宋の守りを知り尽くした将が敵の側についたことは、各地の城の降伏を早めた。1274年、総大将バヤンの軍は漢水を下って長江に出た。1275年、賈似道の率いる南宋の大軍は丁家洲で敗れ、賈似道は失脚して殺された。1276年に都の臨安が開城し、幼い皇帝は北へ連れ去られた。最後まで抵抗した残党も1279年、広東の崖山の海戦で滅びた。襄陽の陥落は、南宋の滅亡を決めた一戦だったとされる。

モンゴル帝国の拡大の拡大の中でも、これほど長い攻城戦は珍しい。南宋を呑み込んだ大元の国号は、その船と兵を海の向こうへも向けた。南宋の降兵を多く乗せた軍が日本へ送られた弘安の役は、襄陽陥落から8年後のことである。回回砲も、その後元の軍の兵器として受け継がれ、専門の部隊が置かれた。

この攻囲には、ヨーロッパに伝わる奇妙な話がある。マルコ・ポーロの『『東方見聞録』』は、ポーロ自身と父ニコロ、叔父マッフェオが投石機の作り方を教え、それで襄陽を落としたと語る。しかし襄陽が降ったのは1273年で、ポーロ一行が元の宮廷に着いたのは1275年頃とされる。中国側の記録に残る技師の名も、彼らのものではない。この一節は、ポーロの話に誇張や他人の手柄の取り込みがある例として、しばしば挙げられる。

『東方見聞録』に関わる図版:Marco Polo - Battle of the King of Burma against the Mongols
『東方見聞録』Wikimedia Commons Maître de la Mazarine et al. . · Public domain

中国で襄陽の名を聞いて多くの人が思い浮かべるのは、金庸の武侠小説かもしれない。『神鵰侠侶』では、英雄の郭靖と黄蓉が襄陽の城を守り、続く物語では、その城が落ちるとき夫婦が殉じたと語られる。史実の呂文煥は降り、小説の郭靖は降らなかった。6年の攻囲は、ひとつの王朝の終わりの始まりとして、いまも物語の中で語り継がれている。

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