土木の変
概要
宦官王振に勧められて正統帝が50万で親征し、オイラトのエセンに囲まれ、皇帝が捕虜になった。于謙が弟を皇帝にして北京を守った。エセンは皇帝を返した。帰った皇帝は7年幽閉され、弟が病むと復位して于謙を殺した。明はそれから長城を築き続けた。
場所
40.40°N 115.30°E · 中国・河北省
本文
1449年9月1日(正統14年8月15日)、北京の北西およそ100キロの土木堡という小さな砦のそばで、明の皇帝が自ら率いた大軍が、モンゴル系のオイラトの騎兵に包囲されて壊滅した。21歳の正統帝は乱戦の中で捕らえられ、草原へ連れ去られた。中国の皇帝が北方の勢力に捕らえられて連れ去られるのは、北宋の二人の皇帝が金に連れ去られた靖康の変以来のことだった。この事件を「土木の変」という。
明は1368年に、モンゴルの元を北へ追って建てられた王朝である(明の成立)。15世紀の初めには永楽帝が自らモンゴル高原へ5度も遠征し、都を北京に移して北の守りに力を注いだ。だが、その後の皇帝たちは遠征をやめ、宮廷の中の政治が中心になっていった。1435年、正統帝朱祁鎮は数え年9歳で即位した。祖母の太皇太后が見守るうちは重臣たちが政治を支えていたが、彼女が死ぬと、幼いころから皇帝の教育係として仕えてきた宦官の王振が権力を握った。皇帝は彼を「先生」と呼んで頼りきっていた。

そのころ、モンゴル高原の西部ではオイラトが力を伸ばしていた。指導者のエセンは、チンギス・カンの血を引くトクトア・ブハをハーンに立て、自らは太師として実権を握り、東のモンゴル諸部も従えて、高原の大部分をまとめ上げていた。遊牧民にとって、中国との交易は欠かせないものだった。明は彼らに朝貢の使節を送ることを許し、使節の人数に応じて返礼の品を与え、国境で馬と絹や茶を交換する市を開いていた。オイラトの使節団は年々膨らみ、明の負担は重くなった。1448年の暮れ、オイラトが3000人と称した使節が実は2000人あまりしかいないと分かり、王振は返礼を実際の人数分に減らし、馬の値も切り下げた。エセンはこれを口実の一つにして、明への攻撃を決めた。
1449年7月、オイラト軍はいくつもの道から明の北の辺境に攻め込み、大同の守備軍を破った。王振は、皇帝自らが軍を率いる親征を強く勧めた。兵部尚書らの大臣たちは、準備が整っていないと必死に止めたが、皇帝は王振の言葉を選んだ。50万と号する大軍は、わずか数日の支度で北京を出発した。実際の数はもっと少なかったとみる研究者が多いが、それでも数十万に及ぶ大軍だった。

遠征は始めからつまずいた。雨が続き、兵糧の運搬は遅れ、兵は飢えと疲れに苦しんだ。前線の大同に着いた一行は、すでに辺境の明軍が各地で大敗していることを知り、戦わずに引き返すことにした。帰り道について、王振は初め、自分の故郷の蔚州を通って皇帝を自分の屋敷に迎えようとした。だが大軍が通れば故郷の畑が荒らされると気づいて途中で道を変えさせた、と伝えられる。こうした迷走のあいだに、オイラトの騎兵が追いついた。明の後衛の部隊は次々に打ち破られた。
8月14日、明軍は土木堡にたどり着いた。城壁のある懐来の町まではあと20里(約10キロ)だったが、王振は、自分の財物を積んだ千台余りの車が遅れて着くのを待つため、ここで野営すると決めたという。土木堡は高台で、井戸を掘っても水が出なかった。近くの川はすでにオイラトに押さえられていた。翌15日、エセンは和議を申し入れるふりをして包囲を少し緩めた。水を求めて明の兵が陣を動かしたところへ、オイラトの騎兵が四方から突入した。大軍はたちまち崩れ、逃げる兵が逃げる兵を踏みつけた。

この日、英国公張輔をはじめ、兵部尚書の鄺埜、戸部尚書の王佐など、50人を超える大臣や将軍が死んだ。王振も混乱の中で死んだ。皇帝の護衛の将軍樊忠が、天下の民のためにお前を殺す、と叫んで鉄の槌で打ち殺したと伝えられる。正統帝は親衛の兵が倒れていくなかで、地面に座ったまま動かず、そこを捕らえられた。
知らせが北京に届くと、宮廷は大混乱に陥った。都を捨てて南の南京へ移ろうと言い出す者もいた。このとき兵部侍郎の于謙が、南へ移ることを口にする者は斬るべきだと言い、北宋が都を捨てて南へ逃れた前例を挙げて、北京を守り抜くことを主張した。皇太后は正統帝の弟の郕王朱祁鈺に政治を任せ、やがて郕王が皇帝に即位した。景泰帝である。捕らわれた正統帝は「太上皇帝」に祭り上げられた。皇帝を人質にしたエセンの脅しの価値を減らすための判断でもあった。
10月、エセンは捕らえた上皇を連れて北京に迫った。于謙は兵部尚書として各地の兵を集め、22万の兵を城の九つの門の外に並べて迎え撃った。城にこもらず門外で戦う構えだった。5日あまりの戦いの末、オイラト軍は北京を落とせないまま引き揚げた。
人質の上皇は、エセンにとって扱いに困る存在になった。明は新しい皇帝を立てており、上皇と引き換えに大きな譲歩をする気配もない。翌1450年8月、エセンは上皇を明に返した。だが北京に戻った上皇を、弟の景泰帝は南宮という宮殿に閉じ込めた。門の錠には鉛を流し込み、食事は小さな穴から差し入れたと伝えられる。幽閉は7年に及んだ。
1457年正月、景泰帝が重い病に倒れると、武将の石亨、文官の徐有貞、宦官の曹吉祥らが兵を率いて夜中に南宮の門を破り、上皇を迎え出して皇帝の座に戻した。「奪門の変」と呼ばれる。正統帝は年号を天順と改めて再び皇帝となった。北京を救った于謙は、別の皇族を皇帝に立てようと企てたという罪を着せられて処刑された。景泰帝はその1か月ほど後に死んだ。殺されたのではないかという噂も残った。粉々に砕かれても恐れない、ただ清らかな白さをこの世に残したい、と石灰に託して詠んだ「石灰吟」は、于謙の作として伝えられ、その生涯と重ねて中国で広く愛唱されてきた。のちに于謙の名誉は回復され、杭州の西湖のほとりに墓と祠が建てられた。
勝ったエセンも長くは続かなかった。1453年、彼は傀儡のハーンを殺して自らハーンを名のったが、チンギス・カンの血筋でない者の即位は反発を招き、翌年には部下に殺された。オイラトの強盛は彼一代で終わった。
土木の変は、明の北方政策を大きく変えたと考えられている。明は草原への遠征をやめ、守りを固める方向へはっきりと転じた。15世紀の後半から、北の辺境には土を突き固めた長い城壁が築かれ始め、16世紀にはモンゴルのアルタン・ハーンが北京を包囲する事件も起きて、城壁は煉瓦と石で固められていった。いま世界遺産として知られる八達嶺などの万里の長城の多くは、この明代後半に築かれたものである。土木堡の跡はいまの河北省懐来県にあり、変を記念する碑が立っている。