人物

段思平

Duan Siping
? – AD944年
南詔と大理重要度 2

概要

南詔のあとの短い王朝を倒し、大理を建てた。段氏の王家は22代続き、その多くが退位して僧になる。武侠小説の「段皇爺」の元になった家。

所属

南詔と大理

関わったできごと(1)

大理国の成立AD937年 · 建国

本文

段思平が生まれたのは、いまの中国の雲南に栄えた南詔という王国の末期である。南詔は8世紀に洱海のほとりで諸部族をまとめて生まれ、唐と吐蕃のあいだで、ときに唐と戦い、ときに唐に従いながら、二百年近く続いた。都は洱海の西岸の大理に置かれ、仏教が厚く信じられた。段思平の家は、その南詔に仕える武将の家だった。後の家系の伝えでは、祖先は漢の時代の武威郡、いまの甘粛から移ってきたことになっているが、確かなことは分からない。のちの白族の人々は、この段氏を自分たちの祖先の王家とみなしている。

Juyingchi
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902年、南詔の王家は、権臣の鄭買嗣に滅ぼされた。鄭氏の建てた国は長く続かず、そのあと趙氏、楊氏と、短い王朝が次々に入れ替わった。雲南は、王が殺され、国の名が変わる混乱の時代に入った。最後の楊氏の王、楊干貞の国は大義寧と名乗ったが、政治は乱れ、人々の不満が高まっていたと伝えられる。

段思平はこの頃、通海の節度使として、雲南の東部に兵を持っていた。その力と人望を恐れた楊干貞は、段思平を除こうとした。身の危険を感じた段思平は逃れ、東方の諸部族に助けを求めた。三十七部と呼ばれる、いまの雲南の東部に住んでいた諸部族である。段思平は、勝ったあかつきには税と労役を軽くすると約束し、彼らの兵を借りたと伝えられる。937年、段思平は兵を率いて西へ進み、楊干貞を破って都の大理を落とし、王の位についた。国の名を大理とした(大理国の成立)。

王となった段思平は、約束どおり、兵を貸した部族の負担を軽くし、各地の有力者を取り込んで国を安定させたとされる。南詔の時代からの仏教を重んじ、寺を建て、仏像を造ったとも伝えられる。だが、在位はわずか8年ほどで、944年に亡くなった。その人柄や政治について、確かな記録はあまり多く残っていない。大理の側の記録は、後の時代に書かれた伝えにもとづくものが多いからである。

段思平が開いた段氏の王家は、その後300年あまり続いた。途中、11世紀の末には、宰相の家である高氏が一時王位を奪い、段氏に返したあとも実権を握り続けた。そのため、段氏の王たちの中には、政治を高氏に任せ、自ら位を退いて寺に入り、僧になる者が少なくなかった。王が出家するという習わしは、仏教の国としての大理の姿をよく表している。12世紀の末に大理の宮廷で描かれた長い仏画の巻物は、いまも残り、この国の仏教文化の豊かさを伝えている。

北の宋とは、大きな戦いをすることなく並び立った。宋を開いた太祖が、地図の上の大渡河に玉の斧で線を引き、ここから南は我が国のものではない、と言ったという話が伝わる。後世の作り話とされるが、宋が大理に手を出さなかったことを物語る逸話として好まれた。大理は宋に馬を売り、宋の物産を受け入れ、交易で結ばれていた。

大理の命運を断ったのはモンゴルだった。1253年、のちの元の世祖フビライ・ハンが、宋を南西から囲むために大軍を率いて雲南に入り、大理を降した(モンゴル帝国の拡大)。だがモンゴルは段氏を滅ぼさず、大理の総管として雲南の西部を治めさせた。段氏が雲南から消えたのは、1382年、明の軍が雲南を平定したときである。段思平の建国から数えれば、450年近くにわたって、この一族は雲南の歴史の中心にいたことになる。

段氏の名を広く知らしめたのは、20世紀の武侠小説だった。金庸の『天龍八部』では、大理の王族の若者段誉が主人公の一人として描かれ、『射鵰英雄伝』では、位を退いて僧になった大理の皇帝が、南の帝、段皇爺として登場する。この段皇爺には、12世紀の末に実在した段氏の王の名が借りられている。小説の中で段氏の一族が使う、一本の指から気を放つ武術が実在したわけではもちろんない。だが、王が僧になる仏教の国という史実が、小説の大理の神秘的な姿を形づくった。

段思平の生涯については分からないことが多い。それでも、三国の時代に諸葛亮の南征の舞台となり、のちに中国の王朝に組み込まれていく雲南の地に、数百年にわたって独自の王国があったことは、彼の挙兵から始まっている。

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