趙匡胤(宋の太祖)
概要
後周の禁軍の将軍が、遠征の途中で部下に黄袍を着せられて皇帝になった。酒の席で将軍たちに兵権を手放させ、以後、文官が武官の上に立つ。「士大夫を殺すな」という誓いを石に刻んで残した。弟に殺されたという噂がある。
所属
宋関わったできごと(2)
宋の成立AD960年 · 太祖杯酒釈兵権AD961年 · 皇帝本文
927年、洛陽の夾馬営と呼ばれる兵営の町で生まれた。家はもと涿郡の出である。父の趙弘殷は、後唐、後晋、後漢、後周と目まぐるしく代わる王朝の禁軍に、そのまま仕え続けた武人だった。唐が滅んでから半世紀、華北では軍人が皇帝を立てては倒す五代十国の時代が続いていた。生まれたとき赤い光が部屋を満たし、不思議な香りが一晩残ったので「香孩児」と呼ばれた、と宋の史書は書く。皇帝の誕生につきものの話である。

若いころは各地を放浪し、後漢の将軍郭威の軍に加わった。郭威が951年に後周を建て、その養子柴栄(後周世宗)が跡を継ぐと、趙匡胤は世宗となった柴栄のそばで頭角を現す。954年、北漢と契丹の連合軍と戦った高平の戦いで、後周の右翼が崩れて世宗が危うくなった。趙匡胤は、主が危ういときこそ死ぬときだと叫んで突撃し、形勢をひっくり返したと伝えられる。以後、禁軍の再建を任され、各地の遠征で手柄を重ねた。
959年、北への遠征の途中で、世宗は「点検作天子(点検が天子になる)」と書かれた木札を見つけたという。点検とは禁軍の総司令官、殿前都点検のことである。世宗はその職にあった張永徳を解き、代わりに趙匡胤を据えた。ところがその年のうちに世宗は30代の若さで病死し、跡を継いだのは7歳の子だった。

960年の正月、契丹と北漢が攻めてきたという知らせが都の開封に届き、趙匡胤は禁軍を率いて出陣した。その夜、開封の北の陳橋駅に宿営すると、将兵たちは幼い皇帝のもとで戦っても報われないと騒ぎ出した。弟の趙匡義と腹心の趙普が兵をまとめ、明け方、酒に酔って寝ていた趙匡胤に皇帝の色である黄色の上着を着せかけた。彼は、自分の命令に従うなら引き受けると言い、後周の太后と幼帝に手を出すな、大臣を殺すな、町や府庫を略奪するな、と約束させて開封へ戻った。幼帝から位を譲られる形をとって、宋が成立した(宋の成立)。攻めてきたはずの契丹の軍は、どこにも現れなかった。すべて仕組まれていたと見るのが普通である。
皇帝になった彼が恐れたのは、自分と同じことを部下にされることだった。961年、石守信ら禁軍の将軍たちを酒宴に招き、自分は夜も眠れないと打ち明けた。お前たちに謀反の心がなくても、部下が黄色い上着を着せたらどうするのか、と。将軍たちは翌日そろって病を理由に兵権を返上し、彼は田畑と屋敷と財物を与えて報いた。「杯酒釈兵権(杯の酒で兵権を解く)」と呼ばれる話で、細部は後の脚色を含むとされるが、この前後に有力な将軍たちが軍の指揮から外されたのは事実である。

続いて、唐の後半から地方で兵と財政を握ってきた節度使の力を削った。精鋭を都の禁軍に集め、地方の役所には文官を送り、軍の指揮官を定期的に入れ替えて兵と将が結びつかないようにした。官僚は科挙で選び、最終試験を皇帝自ら行う殿試を始めて、合格者を皇帝の弟子とした(宋の科挙と士大夫)。文官が武官の上に立つ宋の体制は、ここから始まる。五代の乱世は、これで終わった。
天下の統一は、豊かな南を先に取り、北は後に回す方針で進めた。雪の夜に趙普の家を訪ねて、この順序を相談したという話が伝わる。963年に湖南、965年に四川の後蜀、971年に広州の南漢を降し、975年には長江下流の南唐の都金陵を落とした(南唐の滅亡)。南唐の君主李煜(南唐後主)は開封に連れて来られた。降した君主たちを殺さずに都で養ったのも、彼のやり方だった。ただし、北の北漢と、契丹(遼(契丹))が押さえる燕雲十六州には、生涯手が届かなかった。
彼は、後周の柴氏の子孫を守ること、士大夫と意見書を出す者を殺さないことを誓った石碑を宮中に残し、新しい皇帝は即位のときに一人でこれを読む決まりだったと伝えられる。靖康の変で開封が落ちたとき、金の兵がこの碑を見つけて世に知られた、とされる。南宋の書物に初めて出てくる話で、碑が本当にあったかどうかは議論がある。ただ、宋の皇帝が言論を理由に士大夫を処刑することがきわめてまれだったのは確かである。

晩年の976年、彼は都を守りにくい平地の開封から、山に囲まれた洛陽へ移そうとした。弟の趙匡義は、国の安泰は君主の徳にあって地形の険しさにはない、と言って反対した。太祖はしかたなく従ったが、このままでは百年もたたずに民の力が尽きるだろうと嘆いたという。開封を守るために大軍を都に置き続けなければならない宋の悩みを、彼は見抜いていた。
976年10月、彼は弟の趙匡義と夜遅くまで二人で酒を飲み、翌朝には死んでいた。50歳だった。その夜、障子に映る蝋燭の影の中で弟が席を立ち、斧で雪を突く音が聞こえたという「燭影斧声」の話が、宋代の筆記に残る。弟は甥たちを差し置いて即位し、太宗となった。太祖の息子二人は、数年のうちに相次いで死んでいる。弟による暗殺は証明できず、急な病だったとする見方もあるが、千年にわたって疑いは消えていない。

武人の家に生まれ、武人の推戴で皇帝になった男が、武人の力を抑えて文人の国を作った。宋は軍事では契丹や西夏、のちの金に押され続けたが、科挙で選ばれた士大夫が政治と文化を担い、印刷や商業が大きく花開く時代となった。その性格は、陳橋の夜明けと杯の酒の夜に、すでに決まっていたと言える。