大躍進
概要
鉄鋼と穀物の増産を号令したが、統計が上へ行くほど水増しされた。数千万人が餓死したとされる。
場所
39.90°N 116.41°E · 中国
関わった人(1)
毛沢東AD1893年12月26日–AD1976年9月9日 · 命令本文
1949年の中華人民共和国の成立の後、中国はソ連を手本に、重工業を優先する計画経済を進めた。最初の五か年計画は一定の成果を上げ、農村では土地改革の後、農民を協同組合にまとめる集団化が進んだ。1956年、ソ連でニキータ・フルシチョフがフルシチョフの秘密報告でスターリンを批判すると、毛沢東はソ連の道とは違う、中国独自の速い発展の道を求めるようになった。
1957年、毛沢東は15年でイギリスに追いつき追い越すという目標を掲げた。翌1958年、大躍進が始まる。人々の熱意と大量の労働を注ぎ込めば、工業も農業も一気に伸ばせるという考えだった。前年の反右派闘争で、党の方針に意見を言った知識人が多数「右派」として処罰されていたため、無謀な計画に異を唱える声は出にくくなっていた。

農村では、その夏から数か月のうちに、いくつもの協同組合を合わせた人民公社が作られた。年末までにほぼすべての農家が組み込まれたとされる。一つの公社は数千戸から数万戸からなり、農業だけでなく工業、学校、民兵まで抱えた。土地や家畜は公社のものになり、各地に公共の食堂が設けられて、人々はそこで食事をとるようになった。初めのうちは、腹いっぱい食べよと奨励された食堂もあり、蓄えが早く減っていった。
鉄鋼の生産目標は、前年の倍の1070万トンに引き上げられた。目標を果たすため、全国の村や町、学校の庭に、粘土やれんがで作った小さな炉が築かれた。燃料のために森の木が切られ、鉄がなければ家の鍋や農具まで溶かされた。できたのは、多くが使い物にならない質の悪い鉄だった。そのあいだ、収穫に必要な男たちの多くが炉や水利工事に駆り出され、畑では実った作物が刈り取られないまま残った。

農業では、苗を密に植えれば収穫が増える、土を深く耕せば実りが増えるといった、根拠の乏しい方法が号令された。ネズミ、ハエ、蚊、スズメを「四害」として駆除する運動も行われた。スズメが穀物を食べるからという理由で、人々は鍋を打ち鳴らしてスズメを休ませず、落ちるまで飛ばし続けた。スズメが減ると、害虫が増えたとされる。
問題をいっそう深くしたのは、数字の水増しだった。各地の幹部は、目標を果たせないと処分されることを恐れ、収穫を大きく報告した。報告は上へ行くほど膨らみ、一畝あたり数万斤という、ありえない収穫の記録まで新聞に載った。中央はその数字をもとに、国が買い上げる穀物の量を決めた。実際には無い穀物が農村から取り上げられ、都市へ、さらにソ連への借金の返済や輸出へと回された。

1959年夏、江西省の廬山で開かれた党の会議で、国防相の彭徳懐は毛沢東に手紙を送り、大躍進の行き過ぎを指摘した。毛沢東はこれを自分への攻撃と受け取り、彭徳懐を失脚させた。その後は、少しでも批判めいたことを言えば「右傾」として責められるようになり、地方の幹部は以前にも増して穀物の取り立てを強めた。誤りを正す機会が、ここで失われた。
1959年から1961年にかけて、農村は深刻な飢饉に襲われた。河南省の信陽地区のように、食糧を隠していると疑われた農民が暴行を受け、多数の餓死者を出した地域もあった。人々は木の皮や草の根を食べ、村を離れて食べ物を探そうとしても許されなかった。農民の移動は戸籍の制度で厳しく縛られていた。都市の住民には配給があり、農村ほどの飢えはまぬかれた。1961年になってようやく、政府はカナダやオーストラリアから穀物を買い入れ始めた。

死者の数は、正確には分かっていない。人口統計をもとにした推計は、1500万から4500万まで幅がある。数千万人が飢えで死んだとする見方が多い。
当時、この飢饉は外の世界にほとんど知られていなかった。国内でも、地域を越えて情報が伝わることはまれだった。規模が明らかになったのは、1980年代に人口調査の数字が公表され、研究者が出生と死亡の異常な変動を計算してからである。干ばつや洪水などの天候の悪化もあったが、それだけでは説明できないとされる。1962年に開かれた大規模な党の会議で、国家主席の劉少奇は、この災いは三分が天災で七分が人災だと語ったと伝えられる。
1960年代の初め、劉少奇や鄧小平らは人民公社の規模を縮め、農家に自分の畑を持たせるなどして、経済の立て直しを図った。毛沢東は表の舞台から一歩退いた。しかし数年後、毛沢東は劉少奇らを「資本主義の道を歩む者」として攻撃し、権力を取り戻す。文化大革命である。劉少奇は迫害の中で死んだ。

中国政府は大躍進を誤りと認めているが、その死者の規模について詳しく語ることはいまも避けている。情報が上へ正しく届かず、誤りを指摘する者が罰せられる仕組みが、飢饉をここまで大きくした。その反省は、のちの中国の改革開放で人民公社が解体されていく流れの背景にもなった。