モンゴル帝国の拡大
概要
史上最大の陸上帝国。ユーラシアが一つの交通圏になり、人も物も疫病も東西を往復する。
場所
47.20°N 102.83°E · モンゴル
関わった人(3)
チンギス・ハンAD1162年頃–AD1227年 · 創始フビライ・ハンAD1215年–AD1294年 · 中国征服マルコ・ポーロAD1254年–AD1324年 · この交通圏を旅した本文
1206年、モンゴル高原の北東、オノン川の源に近い草原で、遊牧民の部族の長たちが集まる大会議(クリルタイ)が開かれた。そこでテムジンという男が、すべての遊牧民の君主として「チンギス・カン」の称号を受けた。それから73年後の1279年、その孫の軍が中国南部の海で南宋の最後の抵抗を打ち砕く。そのあいだに、モンゴルは朝鮮半島から東ヨーロッパ、シベリアからペルシア湾までを支配下に置いた。陸の上でつながった帝国としては、史上最大である。
チンギス・ハンが生まれたころ、高原は多くの部族に分かれて争っていた。父を毒殺されて一族に見捨てられ、貧しい少年時代を過ごしたテムジンは、盟友と敵を巧みに使い分けながら、20年あまりで高原の部族を一つにまとめた。彼の新しさは、征服した部族を解体し、もとの血縁の枠を越えて、兵士を千人単位の組(千戸)に組み直したことにある。千戸の長には、家柄ではなく、忠誠と能力で選んだ者を据えた。部族ごとの争いの代わりに、君主に直接つながる一つの軍隊が生まれた。

モンゴル軍の強さは、馬にあった。兵士は一人で何頭もの替え馬を連れ、乗り継いで長い距離を速く動いた。騎馬で弓を射る技に優れ、退くふりをして敵を誘い込み、取り囲んで射る戦い方を得意とした。征服した土地の技術者も積極的に取り込み、中国やイスラーム世界の攻城兵器を使って城壁のある都市も落とせるようになった。
征服は東から始まった。1211年に華北の金に攻め込み、1215年にはその都の中都(今の北京)を落とした。続いて1219年、西方の大国ホラズムへ向かう。きっかけは、モンゴルが送った隊商と使節が、ホラズムの側で殺されたことだった。この遠征で、サマルカンドやブハラ、ニーシャープールなど中央アジアからイランにかけての大都市が次々に攻め落とされた。抵抗した都市の住民は皆殺しにされることが多く、その噂は次の都市を戦わずに降伏させる効果を持った。死者の数は、当時の記録の数字が誇張されていることもあり、推計に大きな幅がある。

1227年、チンギス・カンは西夏を攻める陣中で死んだ。跡を継いだ三男のオゴデイは、1234年に金を滅ぼし、高原に都カラコルムを築いた。この時期に整えられたのが、帝国の全土に駅を置いて馬と食料を備え、使者や役人が乗り継いで移動できるようにする制度である(モンゴルの站赤)。通行を許す金属の札(牌子)を持つ者は、駅ごとに新しい馬を得て、一日に数百キロを進むこともできたとされる。
オゴデイの時代、チンギスの孫バトゥの率いる大軍は西へ向かった。ルーシの諸都市を攻め落とし、1240年にはキエフを陥落させた。翌年にはポーランドとハンガリーに入り、それぞれの軍を打ち破った。ヨーロッパの人々は恐怖に震えたが、1241年の暮れにオゴデイが死ぬと、モンゴル軍は次の君主を決める会議のために引き返した。西ヨーロッパがそれ以上の侵攻を免れたのは、この偶然によるところが大きいとされる(撤退の理由には、補給や草地の不足を挙げる説もある)。
4代目のモンケの時代には、弟フレグが西アジアへ向かい、1258年にバグダードを落としてアッバース朝のカリフを殺した(バグダードの陥落)。五百年続いたイスラーム世界の中心が、ここで終わった。だが1260年、パレスチナのアイン・ジャールートで、エジプトのマムルーク軍がモンゴル軍を破った(アイン・ジャールートの戦い)。モンゴルの西への拡大は、ここで止まる。

東では、もう一人の弟フビライ・ハンが中国の征服を進めた。モンケの死後、フビライは弟アリクブケとの後継争いに勝って君主となり、1271年に国の名を「大元」と改めた(大元の国号)。都を今の北京に移し、1276年に南宋の都臨安を無血で開かせ、1279年、広東の沖の崖山で南宋の残党を滅ぼした。日本へも1274年と1281年の二度にわたって軍を送ったが、いずれも失敗に終わっている。
このころには、帝国はいくつかの大きな国に分かれていた。中国の元、中央アジアのチャガタイの国、ロシアの草原のジョチの国(キプチャク・ハン国)、イランのフレグの国(イルハン国)である。互いに争うこともあったが、元の君主を一族の長として仰ぐゆるやかなつながりは保たれ、ユーラシアの東西を結ぶ道は、一つの勢力の手の中にあった。
この時代を「モンゴルの平和(パクス・モンゴリカ)」と呼ぶことがある。征服の過程では計り知れない破壊があったが、支配が固まった後は、商人の通行が守られ、関税が整えられ、人と物の往来がかつてない規模になった。ヴェネツィアの商人の子マルコ・ポーロが元の宮廷に仕えて帰国し、その見聞が『東方見聞録』として広まったのも、モロッコ生まれのイブン・バットゥータがイスラーム世界から中国まで旅できたのも、この交通圏があったからである。イランではイスラームの天文学が中国に伝わり、中国の紙幣や印刷、火薬の知識が西へ伝わった。イルハン国の宰相ラシード・アッディーンは、ユーラシアの諸民族の歴史をまとめた『集史』を書いた。

同じ道を、病も通った。14世紀の半ば、ペストが中央アジアから西へ広がった。病原菌の遺伝子の研究からは、その源が天山山脈のあたりにあった可能性が指摘されている。1346年頃、ジョチの国の軍が黒海のクリミア半島の港カッファを囲んだとき、陣中で疫病がはやった。そこから船に乗った商人とともに病は地中海に入り、1347年にシチリアに上陸して、ヨーロッパの人口の3分の1から半分を奪う黒死病になった。
人と物を速く動かす仕組みは、そのまま病を速く動かす仕組みでもあった。疫病と戦乱、内紛のなかで、14世紀の後半には各地のモンゴル政権が次々に衰え、1368年には元が中国から北へ追われた。それでも、モンゴルが一度つないだユーラシアの道は、その後の世界の形を変えた。マルコ・ポーロの本を読んだヨーロッパの人々は東方の富にあこがれ、やがて海の道を探しに出ていく。陸の帝国が開いた往来の記憶が、次の大航海の時代を呼び込んだのである。