できごと

康熙字典

The Kangxi Dictionary
AD1716年
重要度 4
ロシア帝国清スペイン帝国ムガル帝国中央アジアの諸ハン国カザフ・ハン国チベットアユタヤ朝Avaシャン諸邦日本大越大越朝鮮王朝ラオスの諸国フィリピンLan NaアイヌモシリMarathaアラカン藩王国AD1716年北京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1716年の版図を描いています(20勢力)。

概要

康熙帝が編纂を命じ、三十人の学者が六年で仕上げた。収録は47,035字。部首を214に整理し、画数の順に並べる。この配列が、以後の漢字の辞書の標準になった。日本の漢和辞典も、これに従っている。各字に、反切による発音と、古い辞書からの引用を、時代順に並べた。誤りも多く、後に王引之が2,588か所の訂正を命じられている。皇帝が編纂を主宰することで、文字そのものが国家の管理下に置かれた。異体字の整理は、同時に、標準の制定である。

場所

北京
39.90°N 116.41°E · 中国

関わった人(1)

康熙帝AD1654年–AD1722年 · 命じた

本文

1710年、清の康熙帝は、新しい字書の編纂を命じた。責任者には大学士の張玉書と陳廷敬が任じられ、その下で30人ほどの学者が作業にあたった。二人の責任者はともに完成を見ずに世を去り、張玉書は1711年、陳廷敬は1712年に死んだ。それでも作業は続き、1716年、字書は完成した。皇帝自ら序文を寄せ、古今の字書を集めてその誤りを正し、長く変わらない手本とする、という趣旨を述べている。

収められた字は4万7035にのぼる。それまで最大だった明の『字彙』(1615年、梅膺祚)が3万3179字だったから、大幅に増えている。康熙字典は、この『字彙』と、清初の『正字通』を下敷きにして作られた。この字数は長く、漢字の総数の目安として扱われてきた。ただし、実際には同じ字の別の形や、古い書物に一度しか現れない字が大量に含まれていて、日常に使われる字は数千にすぎない。

この字書が後世に残した最大のものは、字の並べ方である。漢字を214の部首に分け、同じ部首の中では画数の少ない順に並べる。この方法には長い前史がある。後漢の許慎が著した『説文解字』は、字の成り立ちに基づいて漢字を540の部首に分けた。理論としては筋が通っていたが、引くのは難しかった。部首はその後の字書でしだいに減らされ、『字彙』の梅膺祚は、理屈の正しさより引きやすさを優先して、214部首に整理した。康熙字典はこの方式を採り、皇帝の名を冠した字書の権威によって、それを漢字の辞書の標準にした。いま日本の漢和辞典の多くも、この214部首に従って並んでいる。コンピューターの文字の符号表にも「康熙部首」と名づけられた一群があり、300年前の勅命による整理は、いまも機械の中に生きている。

『説文解字』に関わる図版:Shuowen
『説文解字』Wikimedia Commons Public domain

各字の項目には、まず発音が示される。当時の中国には発音記号が無かったので、別の二字を使う「反切」という方法で表した。たとえば「東」は「徳紅の切」と書く。「徳」の頭の子音と、「紅」の残りの響きを合わせて読め、という意味である。続いて意味が、古い字書や経書からの引用で時代順に並べられる。『説文解字』ではこう説き、後の字書ではこう言い、古典のこの句ではこう使われている、というように。さらに、同じ字の別の形や、俗な書き方、誤った書き方も示される。

つまりこの字書は、字の意味を編者が定義するのではなく、その字がこれまでどう使われてきたかを集めたものだった。用例を集めて語の歴史を示すという考え方は、のちのイギリスのジョンソンの英語辞典やオックスフォード英語辞典にも通じる。

ジョンソンの英語辞典に関わる図版:JohnsonDictionary
ジョンソンの英語辞典Wikimedia Commons Samuel Johnson · Public domain

ただ、作業は急ぎすぎた。6年で4万字以上を扱ったため、引用の出典の誤り、引用文そのものの誤り、発音の記述の食い違いが多く残った。100年あまり後の1827年、道光帝は考証学者の王引之に訂正を命じ、王引之は2588か所の誤りを指摘して『字典考証』にまとめた。それでもすべてではなく、その後も日本や中国の研究者によって、さらに多くの誤りが見つかっている。

なぜ皇帝が字書を作らせたのか。一つには科挙がある。答案には正しい字を書かなければならず、何が正しい字かを誰かが決めなければならない。書物の印刷や校訂にも基準が要る。そしてもう一つ、清は満洲人の王朝だった。漢人の文化を最もよく守り、整えているのは自分たちだ、と示すことは、支配の正統性に関わる。康熙帝は、唐詩を集大成した『全唐詩』や、巨大な類書『古今図書集成』などの編纂を次々に命じた。この流れは孫の乾隆帝の『四庫全書』へと続くが、その編纂は同時に、清に都合の悪い書物を探し出して消し去る作業でもあった(清の文字の獄)。集めることと消すことは、同じ作業の表と裏だった。文字を整えることが支配の技術であるのは、秦の始皇帝が文字を統一したときから変わらない(度量衡と文字の統一)。

1827年刊『康熙字典』の口絵
1827年刊『康熙字典』の口絵Wikimedia Commons Malcolm I'Anson · Public domain

この字書の名は、字の形の名前にもなった。「康熙字典体」である。日本で旧字体と呼ばれる「國」「藝」「廣」のような形は、おおむねこの字書の字形を手本としている。20世紀になると、日本は1946年の当用漢字と現代かなづかいで、中国は1956年に始まる簡体字の制定(簡体字とピンイン)で、それぞれこの手本から離れていった。台湾や香港は、いまもそれに近い形を保っている。一つの字書が300年にわたって「正しい字とは何か」の基準であり続け、それを離れるかどうかが、20世紀の国々の選択になったのである。

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