三家分晋(戦国時代の始まり)
概要
有力な家臣が晋を三つに割り、周王がそれを認めた。下剋上が公認された年として区切りに使う。
本文
春秋時代、北方の大国・晋は、たびたび諸侯の覇者となり、南の楚と覇を争ってきた。名君として知られる晋の文公(晋の文公)は、紀元前7世紀に覇者の座に就いている。だが、その強さの陰で、晋の国の中では大きな変化が進んでいた。
晋の君主は、一族の者に力を持たせると王位を脅かされるとして、公族を遠ざけ、代わりに功のあった家臣たちに要職と領地を与えた。その結果、「卿」と呼ばれる有力な家臣の家々が、それぞれ広い領地と私兵を抱えるようになった。晋の政治は、六つの卿の家(六卿)が握るようになり、君主は名目だけの存在になっていった。
卿の家どうしは、互いに争い、つぶし合った。紀元前5世紀のはじめには、范氏と中行氏が滅ぼされ、残ったのは知・韓・魏・趙の四家だった。中でも最も強かったのが知氏で、当主の知伯(智伯)は、他の三家に領地を差し出すよう求めた。韓と魏は従ったが、趙はこれを拒んだ。
知伯は韓と魏を従えて、趙の当主・趙襄子が籠もる晋陽の城を囲んだ。紀元前455年から3年にわたる包囲の末、知伯は川の水を引き入れて城を水攻めにした。城の中では、かまどまで水に沈み、人々は子を取り替えて食べるほどだったと伝えられる。ところが趙襄子は、ひそかに韓と魏に使者を送り、知伯が勝てば次はあなた方の番だと説いた。紀元前453年、韓と魏は寝返り、三家は力を合わせて知伯を滅ぼし、その領地を分け合った。
このとき、知伯の家臣だった豫譲という男の話が、司馬遷の『史記』に残されている。豫譲は、主君の仇を討つために、体に漆を塗って皮膚をただれさせ、炭を飲んで声をつぶし、姿を変えて趙襄子をつけ狙った。捕らえられた豫譲は、趙襄子の衣を貰い受けてそれを剣で突き、仇を討った形にして自ら命を絶ったという。士は己を知る者のために死す、という言葉は、この豫譲のものとして伝えられている。
知氏を滅ぼした後、晋の君主の手に残ったのはわずかな土地だけで、国の大半は韓・魏・趙の三家のものになった。そして紀元前403年、周の威烈王が、三家の当主を正式に諸侯として認めた。家臣が主家の国を奪い取ったことを、天下の主である周王が追認したのである。晋の君主の家は、その後もしばらく残ったが、紀元前4世紀の前半に完全に消えた。
この出来事を時代の区切りとしたのが、北宋の司馬光である。司馬光は、歴史書『資治通鑑』を、この紀元前403年から書き起こした。君臣の名分は国の秩序の根本であり、周王が自らそれを破って家臣の簒奪を認めたこの年に、秩序の崩壊が始まった、というのが司馬光の考えだった。戦国時代の始まりをいつとするかには、ほかに紀元前475年とする説や、知氏が滅んだ紀元前453年とする説などもある。
同じころ、東の大国・斉でも、家臣の田氏が君主の位を奪い、紀元前386年に周王から諸侯と認められている。春秋時代には、どれほど力があっても周王を尊ぶ建前が保たれた(周の東遷)。戦国時代には、その建前も薄れ、紀元前4世紀には魏や斉の君主が王を名乗り、やがて他の国々も続いた。秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙の七つの国が並び立つ、いわゆる戦国の七雄の時代である。
戦争の姿も変わった。春秋時代の戦いは、戦車に乗った貴族が中心で、礼法に則った面もあった。戦国時代になると、農民を大量に歩兵として動員し、数万から数十万の軍がぶつかり合うようになった。鉄の武器と弩が広まり、城を攻め、城を守る技術も発達した。
生き残りをかけた国々は、身分や出身を問わず、有能な人材を集めた。三家の一つ魏の文侯は、李悝を用いて法を整え、富国強兵に努めて、戦国のはじめに最も強い国を築いた。こうした中で、各地を遊説して自分の考えを売り込む思想家たちが活躍した。儒家・墨家・道家・法家など、諸子百家と呼ばれる人々である。のちに秦は、魏から来た商鞅の改革(商鞅の変法)で国力を高め、紀元前221年に七雄を統一する(秦の中国統一)。三家分晋は、その長い争いの幕開けだった。