← 地図で見る
Person / 人

林彪

Lin Biao
AD1907年12月5日 – AD1971年9月13日(享年63)
中華人民共和国重要度 4

概要

黄埔軍官学校。紅軍で最も若い軍団長。平型関、遼瀋、平津、海南。10元帥の一人。国防相。『毛主席語録』を編んだ。文革で毛の「親密な戦友」「後継者」(党規約に書かれた)。1971年9月、クーデターを企てたとして(真偽は分からない)、トライデント機でソ連へ逃げ、モンゴルのウンドゥルハーンに墜落した。妻と息子と。「林彪事件」。中国人は、毛の後継者が毛を殺そうとしたと知らされた。

関わったできごと(1)

文化大革命1966年 · 後継者

本文

1907年、湖北の黄岡。米商人の子。1925年、黄埔軍官学校第4期。共産党。1927年、南昌蜂起。井岡山で毛沢東に。1930年、23歳で紅軍第4軍の軍長。1932年、第1軍団長。長征。1937年、平型関。八路軍第115師が日本軍の輸送隊を襲って、1000人を殺した(中国側の発表)。「日本軍は無敵ではない」。翌年、閻錫山の兵に誤って撃たれて(日本軍の外套を着ていた)、重傷。1938〜42年、モスクワで療養。

1945〜48年、東北。ソ連軍が引いたあと、満洲を国民党と取り合った。四平で負け、松花江の北へ退き、1947年から反攻。1948年9〜11月、遼瀋戦役。錦州、長春、瀋陽。47万を潰した。11月〜1949年1月、平津戦役。天津を29時間で落とし、北京は傅作義が降った。1949年、南へ。武漢、広州、海南島(1950年)。第四野戦軍、100万。中国の半分を取った。

1955年、元帥(10人の中で3番目、最年少)。病気(と、病気の振り)で、1950年代は表に出なかった。1959年、廬山会議で彭徳懐が失脚して、国防相。「毛沢東思想を学べ」。『毛主席語録』(1964年、解放軍が編んだ小さな赤い本)。「毛主席の言葉は一句が一万句に値する」。「四つの第一」。1965年、「人民戦争の勝利万歳」。1966年、文革。「毛主席の親密な戦友」。天安門で語録を振った。1969年4月、第9回党大会で、党規約に「林彪同志は毛沢東同志の親密な戦友であり後継者である」と書かれた。史上初めて、党規約に後継者の名前が書かれた。

1970年8月、廬山。国家主席の位を置くかどうかで、毛と割れた(毛は置かない、林は置く。林が座るつもりだと毛は見た)。陳伯達が失脚。毛は「林彪は逃げられない」と周りに言い始めた。1971年9月。「五七一工程紀要」(571=武起義。息子林立果が書いた、と発表された。毛の暗殺計画)。9月12日夜、北戴河。9月13日午前0時32分、林彪、妻葉群、息子林立果が、山海関の空港からトライデント256号機で離陸した。燃料は半分。北西へ。午前2時30分頃、モンゴルのウンドゥルハーンの草原に墜落した。9人全員が死んだ。

墜落の理由は分からない(燃料切れ、着陸の失敗、撃たれた、内部で争った)。ソ連が遺体を調べて、林彪だと確認した(歯型)。中国は1か月黙って、10月、党内に、1972年、国民に。「林彪が毛主席を暗殺しようとして、ソ連に逃げようとして、死んだ」。

中国人は混乱した。「親密な戦友」が、そうだったなら、文革は何だったのか。文革への信仰は、ここで折れた、と多くの人が言う。1973年、党から除名。1981年、「林彪・江青反革命集団」として裁かれた(死んでいたが)。

ウンドゥルハーンの草原に、墓がある。モンゴル人が管理している。