人物

劉少奇

Liu Shaoqi
AD1898年11月24日 – AD1969年11月12日(享年70)
中華人民共和国重要度 4

概要

湖南。モスクワで学んだ。安源の炭鉱の労働運動。『共産党員の修養を論ず』。1959年、国家主席。大躍進のあと、毛の路線を修正した(自留地、農村市場)。「三自一包」。毛は「中国のフルシチョフ」「党内の資本主義の道を歩む実権派」として、文革で倒した。1968年、党から永久除名。開封で、病気のまま放置されて、裸で、死んだ。1980年、名誉回復。灰は海に。

関わったできごと(1)

文化大革命1966年 · 倒された

本文

劉少奇は、中国共産党で長く毛沢東に次ぐ地位にあり、中華人民共和国の国家主席を務めた人である。1898年11月24日、湖南省寧郷県の農家に生まれた。家は比較的豊かで、毛沢東の故郷の韶山とは山一つ隔てたほどの近さだった。長沙の学校で学んだのち、1920年に上海でロシア語を学び、翌1921年、モスクワの東方勤労者共産主義大学に送られた。中国共産党に入ったのはこのモスクワ時代である。

1964年、中華人民共和国建国15周年の式典での劉少奇と毛沢東
1964年、中華人民共和国建国15周年の式典での劉少奇と毛沢東Wikimedia Commons 《人民画报》 · Public domain

1922年に帰国すると、劉少奇は労働運動の現場に入った。江西省の安源炭鉱では、李立三とともに鉱夫たちのストライキを指導し、賃上げを勝ち取った。1925年には上海の五・三〇運動で総工会の指導者として働いた。1927年に国民党と共産党が決裂すると、彼は国民党の支配地、共産党の言う「白区」で地下組織を率いる仕事に回った。1934年からは長征にも加わり、その後は華北や華中で党の地下組織と抗日の根拠地づくりを指揮した。農村の根拠地で軍を率いた毛沢東とは違い、都市と地下の組織を知る実務家として、党内で重みを増していった。

1939年、延安で行った講演が『共産党員の修養を論ず』として出版された。党員は自分を鍛え、個人の利益を党の利益に従わせねばならない、と説くこの本は、孔子や孟子の修身の言葉を引きながら党員の心構えを語ったもので、長く党員の必読書とされた。延安の整風運動(延安整風)を経て、劉少奇は毛沢東を支える側に立った。1945年の第7回党大会では党規約の改正を報告し、「毛沢東思想」を党の指導思想として規約に書き込んだ。毛沢東を個人として崇める流れを理論の形に整えた一人が、劉少奇だった。

延安整風に関わる図版:Group photo of representatives of the Yan'an Forum on Literature and Art
延安整風Wikimedia Commons 吴印咸 · Public domain

中華人民共和国の成立のあと、彼は中央人民政府の副主席、全国人民代表大会の常務委員長を務めた。1956年の第8回党大会では政治報告を行い、大規模な階級闘争の時期は基本的に終わったという趣旨の決議が採られた。のちに毛沢東は、この考えを否定していくことになる。1959年4月、毛沢東が国家主席を退くと、劉少奇がその後を継いだ。同じ年の夏の廬山会議で、国防相の彭徳懐が大躍進の行き過ぎを毛沢東に書面で訴えて失脚すると、劉少奇も彭徳懐を批判する側に回っている。

だが大躍進の失敗は隠しようがなかった。1961年の春、劉少奇は故郷の湖南の村々に四十日余り滞在し、農民の暮らしを自分の目で見た。共同食堂は崩れ、人々は飢えていた。翌1962年1月、全国から幹部を集めた「七千人大会」で、劉少奇は、湖南の農民は今度の困難を三分は天災、七分は人災だと言っている、と述べた。毛沢東の政策の誤りを、多くの幹部の前で認めたに等しい発言だった。

1967年、文化大革命の集会で公開批判を受ける劉少奇
1967年、文化大革命の集会で公開批判を受ける劉少奇Wikimedia Commons unknown author · Public domain

その後、劉少奇は鄧小平や周恩来らとともに経済の立て直しを進めた。農家に自分で耕す小さな土地(自留地)と、作物を売る農村の市場を認め、地方によっては生産を農家ごとに請け負わせることも黙認した。こうした手直しは、のちに「三自一包」とまとめて批判される。数年で食糧の生産は持ち直したが、毛沢東の目には、それは集団化を後戻りさせ、資本主義に道を開くものと映った。農村の「四清運動」の進め方をめぐっても、二人の考えは食い違っていった。

1966年、毛沢東は文化大革命を始めた。劉少奇と鄧小平は、初めのうち大学に工作組を送って運動を抑えようとしたが、毛沢東はこれを学生への弾圧だと非難した。8月5日、毛沢東は「司令部を砲撃せよ」と題する壁新聞を自ら書き、党の中枢にいる者こそが敵だと示した。直後の中央委員会の会議で、劉少奇の序列は第2位から第8位に落とされた。彼は「中国のフルシチョフ」「党内で資本主義の道を歩む最大の実権派」と呼ばれるようになる。

文化大革命に関わる図版:Mao Zedong 19661001
文化大革命Wikimedia Commons 孟昭瑞 · Public domain

1967年、劉少奇と妻の王光美は、住まいのある中南海の中で紅衛兵や職員の批判集会に引き出された。王光美は清華大学の集会で、外国訪問のときの装いをあざけるため、ピンポン玉をつないだ首飾りを掛けさせられた。劉少奇は殴られ、髪をつかまれて腰を折る姿勢を取らされた。憲法を手にして、自分は国家主席であり、自分を罷免するには人民代表大会の手続きが要る、と抗議したと伝えられるが、聞き入れられることはなかった。1968年10月、党の中央委員会は彼を「裏切り者、内通者、労働貴族」と決めつけ、党から永久に除名し、すべての職を解いた。会議で、ただ一人除名に挙手しなかった委員がいたことが知られている。

劉少奇は糖尿病と肺炎を患い、寝たきりになっていた。1969年10月、彼は担架で飛行機に乗せられ、河南省の開封に移された。十分な治療は与えられず、11月12日、満70歳で死んだ。髪とひげは伸び放題で、体は痩せ衰えていたという。遺体は「劉衛黄」という偽名で、無職の伝染病患者として火葬された。家族には知らされず、王光美は12年近く獄中にあった。

1959年の劉少奇
1959年の劉少奇Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

文革が終わったあとの1980年2月、党は劉少奇の名誉を回復した。5月には北京で追悼大会が開かれ、遺骨は本人の生前の願いに従って青島の沖の海にまかれた。かつて「毛沢東思想」を党の規約に書き込んだ人が、その毛沢東によって葬られたことになる。劉少奇の名誉回復は、鄧小平のもとで大躍進と文革の誤りを認め、経済の立て直しへ舵を切る流れの一部でもあった。彼が1960年代の初めに試みた農村の手直しは、のちの改革開放の先駆けとして語られることがある。

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