概要
湖南。モスクワで学んだ。安源の炭鉱の労働運動。『共産党員の修養を論ず』。1959年、国家主席。大躍進のあと、毛の路線を修正した(自留地、農村市場)。「三自一包」。毛は「中国のフルシチョフ」「党内の資本主義の道を歩む実権派」として、文革で倒した。1968年、党から永久除名。開封で、病気のまま放置されて、裸で、死んだ。1980年、名誉回復。灰は海に。
関わったできごと(1)
文化大革命1966年 · 倒された本文
1898年、湖南の寧郷(毛沢東の韶山の近く)。地主の家。長沙で師範学校。1920年、上海で外国語学社(ロシア語)。1921年、モスクワの東方勤労者共産大学。共産党。1922年、安源(江西の炭鉱)の労働者ストライキ(李立三と)。労働運動。1925年、上海の五・三〇。1927年、武漢。白区(国民党の支配地域)で地下活動。1934年、長征。1936〜42年、北方局、中原局(華北と華中の地下組織)。
1939年、『共産党員の修養を論ず』。「党員は、党のために、自分を鍛えなければならない。個人の利益を党の利益に従属させる。孔子の『修身』のように」。党員の教科書。1945年、第7回党大会で「毛沢東思想」を定式化した。「毛沢東同志の思想は、マルクス・レーニン主義と中国革命の実践の統一である」。毛の後の2番目。
1949年、国家副主席。1954年、全人代常務委員長。1956年、第8回党大会。「大規模な階級闘争は基本的に終わった」(毛はこれを嫌った)。1959年4月、国家主席(毛が退いて)。大躍進。1961年、故郷に44日帰って、飢饉を自分の目で見た。「農民は、三分は天災、七分は人災と言っている」。1962年1月、七千人大会。「人災」と言った。毛は「劉少奇は私を追い詰めた」。1962年、自留地、農村の市場、請負(「三自一包」)で経済を戻した。「私が党の主席になったら」と毛が言った、と伝える。
1966年5月、文革。8月、第11回中央委員会全体会議。毛の壁新聞「司令部を砲撃せよ」。劉は序列2位から8位へ。「中国のフルシチョフ」「党内の資本主義の道を歩む最大の実権派」。1967年、中南海で紅衛兵に「批闘」された(妻王光美と)。8月5日、天安門広場で100万人の集会、劉は自宅で殴られた。「私は国家主席だ。憲法を読め」。1968年10月、第12回全体会議で「裏切り者、内通者、労働貴族」として党から永久除名、全ての職を解任。
1969年10月、病気(糖尿病、肺炎)のまま、担架で開封に移された。裸で、髪と髭が30センチに伸びて、11月12日、死んだ。71歳。遺体は「劉衛黄」の名で火葬された。家族には知らされなかった。妻王光美は12年投獄。
1980年2月、名誉回復。5月、追悼大会。灰は青島の沖の海に撒かれた(遺言)。『毛沢東思想』を作った人が、毛沢東思想で殺された。