朱熹の白鹿洞書院
概要
廬山の麓の廃れた書院を建て直し、学規を定めた。父子の親、君臣の義から始まる五つの教え。朱子学の学校の手本になり、朝鮮の書院と日本の藩校がこれを写した。
場所
29.55°N 115.98°E · 中国・江西省
関わった人(1)
朱熹(朱子)AD1130年–AD1200年 · 再興本文
長江の南岸、鄱陽湖のほとりにそびえる廬山は、古くから隠者と僧と詩人の山だった。その南のふもとの谷あいに、白鹿洞と呼ばれる場所がある。9世紀の唐の時代、李渤という人が兄とともにここに隠れ住んで書を読み、白い鹿を飼って連れ歩いたので、人びとは彼を白鹿先生と呼んだ。洞窟があったわけではなく、四方を山に囲まれた谷の形を「洞」と呼んだのである。李渤はのちに役人になってこの地方を治め、谷に建物を建てた。
10世紀の五代十国の時代、この地を治めた南唐は、白鹿洞に学校を置いて「廬山国学」と称した。宋の初めには、白鹿洞書院として、湖南の岳麓書院などと並ぶ天下の四大書院の一つに数えられた。書院とは、民間や地方の有志が建てた学びの場で、学者が住み込んで講義をし、学生が寝泊まりして本を読む。しかし、宋の朝廷が官立の学校を整えるにつれて、白鹿洞は人が去り、12世紀には建物も崩れ、草に埋もれていた。
1179年、数えで50歳の朱熹(朱子)が、廬山のふもとの南康軍(いまの江西省九江市の一部)の長官として赴任した。地方の役所の長として、飢饉の救済や税の取り立てに追われる日々だったが、朱熹はこの土地にかつて名高い書院があったことを知り、荒れ果てた跡地を自ら探し当てた。翌1180年、彼は役所の費用で建物を建て直し、書物を集め、学生を養うための田を確保し、皇帝に書院の額と書物を賜るよう願い出た。自分も役所の仕事の合間に書院に通い、学生たちと議論した。
朱熹が書院の門に掲げたのが、『白鹿洞書院掲示』と呼ばれる学びの決まりである。まず、人の間の五つの道。父と子のあいだには親しみがあり、君と臣のあいだには義があり、夫と妻のあいだには区別があり、年長と年少のあいだには順序があり、友のあいだには信がある。学問とは、これを明らかにするためのものだ、と朱熹は言う。次に学ぶ順序として、広く学び、詳しく問い、慎重に考え、はっきりと見分け、ひたむきに行う。身を修めるには、言葉は誠実に、行いは慎み深く、怒りを抑えて欲をふさぎ、善に移り過ちを改める。物事にあたっては、正しさを求めて利益をはからず、道を明らかにして手柄を数えない。人と接するには、自分の望まないことを人にしてはならず、うまくいかないときは自分を省みる。どれも古典からとった言葉を並べたものである。
朱熹はこの掲示の後書きに、近ごろの学校の規則は細かい罰則ばかりで、学ぶ者を外から縛ろうとしている、と書いた。ここで学ぶ者は、自分から理を求めて、自分を律してほしい。科挙に受かるための詩文の技術を磨く学校ではなく、人としてどう生きるかを学ぶ場所でありたい、という考えである。当時、官僚になる道は科挙に限られ、学問はそのための受験勉強になりがちだった(宋の科挙と士大夫)。
1181年、朱熹は、学問の方法をめぐって論争していた相手の陸九淵を書院に招いた。二人は6年前に会って議論し、物事の理を一つずつ窮めていくべきだとする朱熹と、自分の心の本来の姿をまず悟れと説く陸九淵とで、意見が分かれたままだった。陸九淵は「君子は義に喩り、小人は利に喩る」という『論語』の一句について講じ、人が学ぶのは何のためか、科挙と出世のためではないか、と問いかけた。聴いていた学生の中には涙を流す者もいたといい、朱熹はその講義の記録を石に刻ませた。考えの違う学者に自分の書院の壇を譲ったことは、のちの書院の美談として語り継がれた。
朱熹の学問は、晩年には朝廷の政争に巻き込まれて「偽学」として禁じられ、彼は1200年に失意のうちに死んだ。しかし死後まもなく名誉は回復され、元の時代の1313年に科挙の試験の基準とされると、朱子学は以後600年にわたって中国の正統の学問になった(朱子学の成立)。白鹿洞の掲示も、各地の書院や学校に掲げられた。
その影響は海を越えた。朝鮮では16世紀、白鹿洞にならって最初の書院が建てられ、儒学者の李滉は掲示を図にして王に献じた。朝鮮の各地に建てられた書院は、学問の場であると同時に、地方の両班の結びつきの拠点になる。日本では江戸時代、儒学者の山崎闇斎がこの掲示に注釈をつけて広め、各藩の藩校や私塾の講堂に掲げられた。のちに朱子学を批判した王陽明も、若いころは朱熹の教えに従って理を窮めようとして挫折した人だった(王陽明の龍場の悟り)。
白鹿洞書院は、その後も戦乱で何度も焼け、そのたびに建て直された。いまの建物の多くは明と清の時代のもので、1996年に世界遺産に登録された廬山の文化的景観の一部として公開されている。