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Event / できごと

崖山の戦い

Battle of Yamen
AD1279年3月19日
重要度 5

概要

南宋の最後。8歳の皇帝と20万人が1000隻の船を鎖でつないで海に浮かんでいた。張弘範が水と薪の道を絶った。陸秀夫は皇帝を背負って海に入った。10万の死体が浮いた。「崖山の後に中国なし」と、明末の遺民が言い、日本の学者が広めた。

場所

崖山
22.20°N 113.05°E · 中国・広東省新会

本文

1276年、臨安。恭帝は大都へ。 陸秀夫、張世傑、文天祥。 益王趙昰、9歳。端宗。福州。 広州。 1278年、趙昰が死んだ。碙洲。 趙昺、8歳。帝昺。 崖山。新会。珠江の河口の西。二つの山の間の水道。 陸秀夫が丞相。張世傑が軍。文天祥は五坡嶺で捕えられていた。 20万人。1000隻。 「船を鎖でつないで、四角の城のように。皇帝の船を中に」。 「陸に砦を築くな」。張世傑。「逃げ場を作ると兵が逃げる」。 張弘範。漢人。元の将軍。 1279年2月。 「水と薪」。船が海の水を飲んだ。吐いた。 文天祥に降伏勧告を書かせようとした。文天祥は「過零丁洋」の詩を渡した。「人生自古誰無死、留取丹心照汗青」。 3月19日。 朝、潮が引く時に北から。昼、潮が満ちる時に南から。 音楽で合図。宋軍は宴だと思った。 崩れた。 陸秀夫は妻子を海に入れ、帝昺を背負って、海に入った。 「国事ここに至る。陛下は国のために死すべし」。 8歳。 7日後、10万の死体が浮いた。 楊太后は「私が生きていたのは趙氏の一人のため」と海に。 張世傑は嵐の海で「天が宋を滅ぼすなら、この船を沈めよ」。沈んだ。 文天祥は大都で3年、拒んで、1283年に殺された。 「宋」。960年から。319年。 張弘範は崖山の岩に「鎮国大将軍張弘範滅宋於此」と刻んだ。 明の人が「宋」の前に「張」を彫り足して「宋張弘範」にした、と伝える。 「漢人が漢人の国を」。 「崖山之後無中国」。 明末清初、遺民。銭謙益、とも。 日本の内藤湖南、あるいは20世紀の中国のネット。 「宋で中国の文明は終わった。以後は異民族の」。 「日本が、それを引き継いだ」。 「そういう論を、日本の学者が」。 「崖山」。 2019年、崖山に海の底から船と遺物。 崖門。海戦公園。 陸秀夫の像。皇帝を背負って。

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