崖山の戦い

概要
南宋の最後。8歳の皇帝と20万人が1000隻の船を鎖でつないで海に浮かんでいた。張弘範が水と薪の道を絶った。陸秀夫は皇帝を背負って海に入った。10万の死体が浮いた。「崖山の後に中国なし」と、明末の遺民が言い、日本の学者が広めた。
場所
22.20°N 113.05°E · 中国・広東省新会
本文
1276年、元の大軍が迫る中、南宋の都臨安は戦わずに開城した。幼い恭帝と皇太后は北の大都へ連れ去られた。それでも宋は終わらなかった。恭帝の兄弟にあたる二人の幼い皇子が都から逃され、忠臣たちに守られて南へ下った。宋の成立から300年あまり続いた宋の、最後の3年の始まりである。
皇子を守ったのは、陸秀夫、張世傑、文天祥らだった。兄の益王趙昰が福州で皇帝に立てられ、端宗と呼ばれる。だが元軍の追撃は続き、宋の朝廷は福建から広東へ、陸と海を逃げ回った。1278年、端宗は逃避行の途中、碙洲という島で病死した。まだ10歳前後だった。臣下たちは、その弟の趙昺を新しい皇帝に立てた。数えで7歳か8歳の子どもである。
朝廷が最後に落ち着いたのは、広東の珠江の河口の西、いまの新会にある崖山だった。二つの山が海に迫り、その間を水道が抜ける地形で、守りやすいと考えられた。陸秀夫が丞相として政務を見、張世傑が軍を率いた。陸秀夫は、海を逃れる船の上でも礼を崩さず、幼い皇帝のために儒教の経書『大学』を書き写して講じたと伝えられる。文天祥は別に兵を集めて戦っていたが、1278年の暮れ、広東の五坡嶺で元軍に捕らえられた。崖山には、兵と官人と家族、合わせて20万人ほどが集まったと伝えられる。
元軍を率いたのは張弘範である。北中国の漢人で、元に仕えた将軍だった。張世傑は、陸に砦を築いて退路を残すと兵が逃げ出すと考え、千余りの軍船を海の上で縄や鎖でつなぎ合わせ、皇帝の船を中にして四角い城のように並べたとされる。動かない城となった船団は、守りは固いが、身動きが取れなかった。

1279年の初め、張弘範は船団を囲み、陸からの水と薪の道を断った。宋の兵は乾いた食べ物をかじり、喉が渇くと海の水を飲み、吐いたと『宋史』は記す。張弘範は捕虜の文天祥に、張世傑へ降伏を勧める手紙を書かせようとした。文天祥は拒み、少し前に作った詩「零丁洋を過ぐ」を書いて渡した。その結びは、人は昔からだれでも死ぬ、ならばまごころを残して歴史を照らそう、という意味の二句である。
3月19日、元軍は総攻撃をかけた。朝、潮が引いて南へ流れる時に北から攻め、昼、潮が満ちて北へ流れる時に南から攻めたという。合図には音楽が使われ、宋の兵は敵が宴を開いていると思って油断したとも伝えられる。つながれた船団は端から崩れ、旗が倒れた。張世傑は精兵とともに鎖を断ち切って脱出を図ったが、皇帝の船はつながれた船の中で動けなかった。
陸秀夫は、もはや逃れられないと悟った。まず自分の妻子を海に入らせ、それから幼い皇帝に、国のことはここに至りました、陛下も国のために死なねばなりません、と言ったと伝えられる。陸秀夫は皇帝を背負い、海へ身を投じた。多くの官人と兵がそれに続いた。『宋史』は、7日後、海に浮かんだ遺体は10万を超えたと記す。
皇帝の死を知った楊太后は、自分が今日まで生きてきたのは趙氏の血を引く一人のためだった、と言って海に身を投げたという。脱出した張世傑は、なお再起を図ったが、嵐に遭い、天が宋を滅ぼすならこの船を沈めよ、と叫んだと伝えられる。船は転覆し、張世傑は溺れて死んだ。こうして宋の王朝は終わった。960年の建国から319年だった。
大都へ送られた文天祥は、3年余りにわたって降伏を拒み続けた。フビライ・ハンは彼の才を惜しみ、高い位を約束して仕えるよう説いたが、文天祥は宋の臣として死ぬことを望み、1283年の初めに処刑された。獄中で作った「正気の歌」は、節を守った人の詩として後世の中国で長く読み継がれ、幕末の日本の志士たちにも愛誦された。
勝った張弘範は、崖山の岩に、鎮国大将軍張弘範、宋をここに滅ぼす、という意味の文字を刻ませたと伝えられる。のちに明の人が、その頭に「宋」の一字を彫り加え、宋の張弘範が宋を滅ぼした、つまり漢人でありながら異民族のために同じ漢人の王朝を滅ぼした者、という意味に変えたという話が残る。真偽は確かめられないが、崖山が漢人にとってどういう記憶の場所だったかを伝えている。張弘範自身は、崖山の勝利の翌年、1280年に病で死んだ。
崖山の後に中国なし、という言葉がある。宋の滅亡で中国の文明の正統が途絶えた、という意味で、明が滅んで清が起こった頃の遺民の言葉だとも言われるが、出典ははっきりしない。近年、インターネットなどを通じて広まった言い回しだとも指摘されている。宋の文化をどう評価するかという議論とも結びつき、宋の科挙と士大夫に代表される宋の社会を中国の近世の始まりと見る見方もある。
崖山の滅亡で、中国の全土は初めて北方の遊牧民の建てた王朝、大元の国号のもとに入った。2年後、南宋の降兵を多く乗せた元の軍が日本へ向かう弘安の役が起きる。崖山の海辺には、いまも幼い皇帝を背負って海へ入る陸秀夫の像が立っている。