都江堰
概要
秦の蜀郡の太守になった李冰は、山から平野へ流れ出る岷江の暴れように手を焼いた。雪解けには洪水が起き、日照りには田が干上がる。彼は川を堰き止めるのではなく、川の真ん中に魚の口のような形の中州を築いて流れを二つに分けた。一方は洪水と砂を流し去り、もう一方は岩山を切り開いた狭い口から平野の用水へ入る。水かさが増せば、余った水は低い堰を越えて戻る。堤は竹籠に石を詰めて作り、毎冬、人々が総出で底をさらった。成都の平野は「天府の国」と呼ばれる穀倉になり、この仕組みはいまも使われている。
場所
31.00°N 103.62°E · 中国・四川省
本文
岷江は、チベット高原の東の縁から四川盆地へ流れ下る川である。山あいを急な勾配で下ってきた水は、いまの都江堰市のあたりで、急に開けた平野へ出る。春から夏にかけては雪解けと雨で水かさが一気に増え、山から大量の砂と石を運んでくる。平野に出たとたん流れは遅くなり、砂が積もって川底が上がり、水は堤を越えて田畑と村を押し流した。それでいて冬には水が足りず、平野の西は乾き、東は水浸しという年もあった。
紀元前316年、秦は蜀の国を滅ぼして、この盆地を手に入れていた。のちに中国を一つにする秦である。東の国々と長い戦いを続ける秦にとって、蜀の平野を豊かな穀倉に変えられれば、兵を養い、兵糧を長江伝いに送ることができる。昭襄王の時代、蜀郡の太守として李冰が送られた。生まれた年も死んだ年も、どこの出身かもよく分からない。残っているのは、この仕事だけである。

司馬遷の『史記』河渠書は、蜀の守である李冰が岩を切り開いて水の害を避け、成都の平野に二本の川を通したと短く記している。工事が始まった年ははっきりせず、紀元前256年ごろとされるのは、昭襄王の治世の中で見当をつけた年である。
李冰のやり方は、川を横切ってせき止めるダムではなかった。仕組みは三つの部分からなる。まず魚嘴(ぎょし)。川の真ん中に、魚の口のように先のとがった細長い中州を築き、流れを外江と内江の二つに分ける。外江はそのまま下流へ流れ、内江は平野の用水へ向かう。分かれ目の形と位置が工夫されていて、水の少ない季節には内江におよそ六割が入り、洪水の季節には逆に外江へ多くが流れるように働いたとされる。

次に宝瓶口(ほうへいこう)。内江の水を平野へ入れるための狭い口で、玉塁山という岩山の端を切り開いて作った。火薬の無い時代である。岩を薪で焼き、冷たい水をかけてひびを入れ、少しずつ割り取ったと伝えられる。口の幅が限られているので、どれほど水かさが増しても、平野へ入る水には自然と上限がかかる。
三つ目が飛沙堰(ひさえん)である。内江の脇に設けた低い堰で、宝瓶口の手前で水があふれそうになると、余った水が堰を越えて外江へ戻る。水の渦に巻かれて、重い砂や石も一緒に越えていく。こうして魚嘴が水を分け、飛沙堰が余りと砂を捨て、宝瓶口が平野へ入る量を絞る。三つが組み合わさって、人がいちいち操作しなくても水の量がならされる。

材料も変わっていた。堤や堰は、竹で編んだ長い籠に川原の石を詰めて並べて作った。壊れても、その場ですぐ作り直せる。毎年冬、水の少ない時期になると、木の三脚を並べて川の片側ずつを仮にせき止め、底にたまった砂をさらい、壊れた籠を取り替えた。「深く淘り、低く堰を作れ」という言葉が、李冰の残した教えとして伝わる。川底は深くさらい、堰は高くしすぎるな、という意味である。直すことを前提に作られた設備だった。
成都の平野は変わった。4世紀の地誌『華陽国志』は、水も日照りも人の思うままになり、飢えを知らず、天下はここを「天府」と呼んだと記す。秦はこの穀倉を背に、紀元前221年の秦の中国統一へと進んだ。のちの三国時代、劉備の入蜀で劉備が手に入れた蜀の国が、魏や呉と渡り合えたのも、この平野の豊かさがあったからだと言われる。

李冰は神になった。山のふもとには李冰と、その息子とされる二郎を祀る二王廟が建てられ、毎年の工事の始まりには祭りが行われた。息子の話は後世に加わった伝承と考えられている。1974年には、川底から後漢の168年に作られた李冰の石像が掘り出された。水の深さを測る目印として水中に立てられていたとみられ、李冰が石の人形を川に置いて水位の基準にしたという言い伝えと重なっている。
都江堰はいまも使われている。2200年以上たっても、魚嘴と宝瓶口と飛沙堰は基本の形を変えずに働き、灌漑の範囲は当時よりはるかに広がった。2000年には青城山とともに世界遺産になった。
なぜこれほど長く続いたのか。一つは、川を止めなかったことである。高いダムで流れをせき止めれば、運ばれてきた砂が溜まり、いつかは貯水池が埋まる。もう一つは、毎年直す仕組みを人々の暮らしの中に組み込んだことだ。水を治めるやり方には、巨大な壁で力ずくで押さえ込む道と、流れの性質に任せて少しずつ向きを変える道がある。20世紀のアスワン・ハイ・ダムが前者の代表だとすれば、都江堰は後者の、最も古く、最も長く生きている例である。