唐の太宗
概要
貞観の治と呼ばれる安定を作った。長安は当時の世界で最大級の国際都市になる。
所属
唐関わったできごと(5)
唐の成立AD618年 · 基礎を固めた玄武門の変AD626年7月2日 · 殺した側貞観の治AD627年 · 皇帝文成公主の入蔵AD641年 · 送った安市城の戦いAD645年 · 退いた本文
唐の太宗、名は李世民。598年、隋の有力な貴族の李淵の次男として生まれた。母方の血筋も含め、北方の遊牧民の血を引く家柄だった。隋の煬帝が高句麗への遠征を重ねて国が乱れると、617年、李淵は太原で兵を挙げ、翌618年に都の長安で帝位に就いて、唐を建てた(唐の成立)。高祖である。挙兵をためらう父を李世民が説き伏せたと唐の史書は書くが、これは即位後の李世民が、自分の功績を大きく見せるために史書に手を加えさせた結果だとする見方が強い。

唐の建国の後も、各地には隋の末期に立った群雄が残っていた。秦王に封じられた李世民は、その平定の先頭に立った。621年には、洛陽に拠る王世充を囲み、救援に来た河北の竇建徳の大軍を虎牢関で迎え撃って捕らえ、両者を一挙に降した。20代前半で、彼は唐で最も功績のある将軍になっていた。
だが、その功績は兄の皇太子李建成との対立を生んだ。建成は弟の李元吉と組んで、李世民を除こうとした。626年、李世民は先手を打った。宮城の北門である玄武門で待ち伏せし、参内してきた兄と弟を殺した(玄武門の変)。兄は自らの矢で射たという。兄弟の子らも殺された。父の高祖は李世民を皇太子とし、2か月後に位を譲った。

兄弟を殺し、父を退位させて得た位である。太宗はその負い目を、よい政治によって晴らそうとしたとも考えられている。年号を貞観と改めた627年から、その治世は貞観の治と呼ばれ、後世の中国で理想の政治の手本とされた(貞観の治)。彼は房玄齢や杜如晦ら有能な臣下を用い、隋の制度を引き継いで、中央の官制や律令を整えた。
太宗の政治で際立っているのは、臣下の諫めを聞き入れたことである。その代表が魏徴だった。魏徴はもともと兄の建成に仕え、李世民を早く除くよう進言していた人物である。太宗は彼を許して重く用いた。魏徴は皇帝に面と向かって、二百余りの事について諫めたと史書は記す。宮殿の造営や狩猟、遠征の計画を、彼はたびたび止めた。皇帝が怒って、いつかあの田舎者を殺してやる、と口にしたことがあったが、皇后が、臣下が正直なのは君主が明るいからです、と祝いを述べたので、怒りを解いたという話も伝わる。643年に魏徴が死ぬと、太宗は、銅を鏡とすれば衣冠を正せる、昔を鏡とすれば国の興亡が分かる、人を鏡とすれば得失が分かる、私は一つの鏡を失った、と嘆いた。

対外的には、唐の勢力を大きく広げた。即位の直後、東突厥の大軍が長安の近くまで迫り、太宗は自ら少数の供だけを連れて渭水のほとりで可汗と対面し、贈り物を約束して退かせた。4年後の630年、東突厥の内紛に乗じて大軍を送り、可汗を捕らえた。北方の遊牧民の君長たちは、太宗に天可汗の称号を贈った。中国の皇帝であると同時に、遊牧民の君主としても認められたのである。西では高昌国を滅ぼして西域に進み、チベットのソンツェン・ガンポには皇族の娘を嫁がせた(文成公主の入蔵)。国禁を破ってインドへ旅立った玄奘が645年に戻ると、太宗は彼を宮中に招いて旅の話を聞き、経典の翻訳を助けた。
都の長安には、西域の商人や、日本や新羅からの使節や留学生、さまざまな宗教の僧が集まり、当時の世界で最大級の国際都市になった。635年には、ネストリウス派のキリスト教(景教)の僧が長安に来て、布教を許されている。

晩年の太宗は、かつての慎みを失ったともいわれる。皇太子だった長男の承乾が謀反を企てて廃され、後継ぎ選びに苦しんだ末、九男の李治(のちの高宗)を皇太子とした。645年には自ら大軍を率いて高句麗へ攻め込んだが、安市城を落とせず、冬の寒さに追われて退いた。魏徴が生きていれば、この遠征を止めただろう、と嘆いたという。その後も遠征を計画したが、649年、52歳(数え年)で死んだ。
太宗と臣下たちの問答は、8世紀の初めに呉兢によって『貞観政要』としてまとめられた。この書は君主の心得を説く帝王学の教科書として、中国だけでなく朝鮮や日本でも長く読まれた。日本では、鎌倉時代に北条政子が和訳を作らせ、徳川家康は出版させている。なお、太宗の後宮に仕えた若い女性の一人が、のちに中国史上ただ一人の女帝となる則天武后である。