人物

西太后

Empress Dowager Cixi
AD1835年11月29日 – AD1908年11月15日(享年72)
清重要度 4

概要

幼帝の後見として47年間、清の実権を握った。改革を潰した側とも、遅れて進めた側とも評される。

所属

清

関わったできごと(2)

日清戦争1894年 · 清の実権を握っていた辛亥革命AD1911年10月10日 · その3年前に死んでいる

本文

西太后は1835年11月29日、満州族の葉赫那拉(エホナラ)氏の家に生まれた。父は中級の官吏だった。1852年、16歳で皇帝の后妃を選ぶ選考に通り、咸豊帝の後宮に入った。はじめは低い位だったが、1856年に皇帝のただ一人の男子、載淳を産んで、その地位は大きく上がった。教養があり、字が書けたので、病がちの皇帝の文書の処理を手伝ったともいわれる。

当時の清は、内からは太平天国の乱に、外からは英仏の圧力に揺さぶられていた。1860年、アロー戦争(第二次アヘン戦争)で英仏軍が北京に迫ると、咸豊帝は后妃たちを連れて北の離宮のある熱河へ逃れた。北京の郊外の離宮、円明園は英仏軍に焼き払われた。翌1861年、咸豊帝は熱河で死んだ。30歳だった。

太平天国の乱に関わる図版:Regaining the Provincial City Anqing2
太平天国の乱Wikimedia Commons Wu Youru · Public domain

5歳の載淳が同治帝として即位すると、咸豊帝の遺言で任じられた8人の重臣が政治を預かった。だが西太后は、皇后だった東太后と、北京で英仏との交渉を担っていた皇帝の弟の恭親王と手を組み、北京に戻るやクーデタを起こして重臣たちを倒した。以後、二人の太后が、皇帝の座の後ろに簾を垂らしてその陰から政治を聞く垂簾聴政が始まった。西太后はまだ20代の半ばだった。

それから約半世紀、彼女は清の実権を握り続けた。恭親王や、曽国藩、李鴻章らの漢人官僚を用い、太平天国を滅ぼし、西洋の兵器や技術を取り入れる洋務運動を後押しした。兵器工場や造船所、近代的な海軍が作られ、この時期は同治の中興と呼ばれた。

西太后の肖像写真
西太后の肖像写真Wikimedia Commons Public domain

1875年、同治帝は19歳で死んだ。天然痘によるとされる。西太后は、自分の妹の子で、まだ4歳の載湉を光緒帝として立て、再び垂簾聴政に戻った。皇帝の位を、前の皇帝の次の世代ではなく同じ世代から選ぶのは、清の決まりに反していた。1881年には東太后が急死し、西太后は一人で権力を握った。

光緒帝が成人して政治を親らするようになると、西太后は北京の西の頤和園に移って隠居の形をとったが、重要な人事などは彼女の許しが要った。頤和園の再建のために、海軍の予算が流用されたという話は広く知られている。その分だけ北洋艦隊の軍備が遅れ、日清戦争での敗北を招いたというのである。ただし、流用の規模や敗戦への影響については、誇張があるとする研究もある。

日清戦争に関わる図版:旅顺海军公所
日清戦争Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

日清戦争に敗れた後、若い光緒帝は、康有為や梁啓超らの改革派を用いて、1898年に政治や教育、軍の制度を一気に変える改革を始めた。戊戌の変法と呼ばれる。改革は急で、古い官僚たちの強い反発を招いた。103日後、西太后は再び政権を握り、光緒帝を宮中の湖に浮かぶ小島の建物に幽閉した。康有為と梁啓超は日本へ逃れ、改革派の6人が処刑された。

1900年、外国人とキリスト教徒を襲う義和団の乱が北京に迫ると、西太后は彼らを利用して列強を追い払おうと考え、6月、列強に宣戦を布告した。8月、日本やロシアを含む8か国の連合軍が北京を占領し、西太后は光緒帝を連れて西安へ逃れた。逃げる前に、光緒帝の寵愛した珍妃を井戸に投げ込ませたと伝えられる。翌年の講和で、清は巨額の賠償金を背負い、外国の軍隊の北京駐留を認めた。

宦官に担がれた神輿に乗る西太后
宦官に担がれた神輿に乗る西太后Wikimedia Commons John Yu Shuinling · Public domain

西安から戻った西太后は、それまでとは打って変わって改革を進めた。光緒新政と呼ばれる。新しい軍隊を作り、学校を開き、1905年には1300年続いた官吏登用の試験、科挙を廃止した。1906年には憲法を作って立憲政治に移る準備を始めると宣言し、1908年には憲法の大綱を発表した。その多くは、10年前に彼女自身が潰した戊戌の変法が目指したものと重なっていた。

1908年11月14日、幽閉されたままの光緒帝が37歳で死んだ。翌15日、西太后も72歳で死んだ。彼女は死の直前、光緒帝の弟の子で、2歳の溥儀を次の皇帝に指名していた。皇帝と太后がわずか1日違いで死んだことには、当時から毒殺の噂があった。2008年、中国の研究機関が光緒帝の遺髪や遺骨を分析し、致死量を大きく超えるヒ素を検出したと発表した。光緒帝が毒殺されたことはほぼ確かになったが、誰が命じたのかは分かっていない。

西太后と外国の婦女
西太后と外国の婦女Wikimedia Commons John Yu Shuinling · Public domain

西太后の死から3年後、辛亥革命が起き、清は滅んだ(その幕引きを担ったのが袁世凱である)。彼女は長く、国を誤らせた強欲で残忍な女帝として語られてきた。その多くは、彼女と敵対した改革派や、外国人の書いたものに由来する。近年は、男性の官僚しかいない朝廷で半世紀にわたって権力を保った政治の手腕や、晩年の改革を見直す研究も増えている。だが、改革を潰した側と進めた側の両方に彼女がいたことは変わらない。

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