できごと

東晋の成立

Founding of the Eastern Jin
AD317年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民晋サカ族の王国グプタ朝サータヴァーハナ朝漢趙(前趙)カリンガ高句麗アイヌヒンドゥーの諸王国日本チャンパ新羅シンハラAD317年南京
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD317年の版図を描いています(15勢力)。

概要

洛陽と長安が匈奴に落ち、皇族の司馬睿が建康で帝位に就いた。北から逃げた貴族が政権を握り、江南が中国の中心になっていく。「王と馬と天下を共にす」と言われた。

場所

南京
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省

本文

晋による統一で三国時代を終わらせた晋は、統一から10年あまりで崩れはじめた。初代の司馬炎が死ぬと、皇族の諸王が実権を奪い合い、291年から16年にわたる八王の乱になる。諸王は兵力を補うため、華北に住みついていた匈奴や鮮卑などの騎馬の人びとを傭兵として引き入れた。その一人、匈奴の劉淵は304年に自立して漢を名のり、五胡十六国と呼ばれる時代の幕を開ける。

311年、劉淵の子の劉聡の軍が都の洛陽を落とした。宮殿は焼かれ、皇族や官僚が大勢殺され、懐帝は捕えられて平陽へ連れ去られた。懐帝は宴の席で劉聡のために酒をつぐ役をさせられ、それを見て泣いた晋の旧臣がいたため、まもなく殺されたと伝えられる。長安で即位した愍帝も、316年に城を囲まれて降伏し、同じように辱めを受けたのちに殺された。年号から「永嘉の乱」と呼ばれる。

西晋時代の陶製女性像
西晋時代の陶製女性像Wikimedia Commons Gary Todd from Xinzheng, China · CC0

そのころ、皇族の傍流にあたる瑯琊王の司馬睿は、長江の南の建康(いまの南京)にいた。307年、華北の混乱を避けてこの地に移っていた。決め手になったのは、北の名門である瑯琊の王氏の王導が付き従い、彼を支えたことだった。江南の土着の豪族ははじめ、北から来た無名の王を冷ややかに見ていた。王導は、名士たちを従えて司馬睿の行列を盛大に見せ、地元の有力者を招いて役職を与え、少しずつ支持を集めたとされる。

長安の陥落を受けて、司馬睿は317年に晋王を名のり、愍帝の死が伝わった翌318年に皇帝の位に就いた。元帝である。これ以後の晋を東晋と呼ぶ。即位の儀式の日、元帝は王導の手を取って玉座に一緒に座らせようとした。王導は「太陽が地上の万物と同じ高さに降りてきたら、人びとは何を仰げばよいのでしょう」と言って固く断ったと、正史の『晋書』は伝える。

司馬金龍墓の漆絵屏風(484年、大同、晋の宮廷様式を伝える)
司馬金龍墓の漆絵屏風(484年、大同、晋の宮廷様式を伝える)Wikimedia Commons Artist: 5th century artist in China. Photographer: unknown · Public domain

「王と馬と、天下を共にす」。王氏と司馬氏が天下を分け持っている、という当時の言葉である。王導が朝廷で政治を、従兄の王敦が長江中流で軍を握っていた。皇帝の力は弱く、元帝が王氏を抑えようとすると、322年に王敦が兵を挙げて建康に攻め入った。元帝は翌年、失意のうちに死んだ。東晋の100年は、王氏、庾氏、桓氏、謝氏といった名門が順に実権を握る時代になる。

華北からは、戦乱を避けて大勢が南へ移った。貴族は一族と使用人を連れ、農民は村ごと移った。東晋は彼らのために、故郷の郡や県の名をそのまま江南の土地につけた仮の行政区を置いた。北の人びとは自分たちの言葉と家柄を誇り、いつか中原へ帰ると言い続けた。祖逖のように北へ攻め上った将軍もいたが、朝廷は本気で支えなかった。383年には淝水の戦いで前秦の大軍を退けたものの、華北を取り戻すことはついになかった。

西晋時代の青磁の人物像
西晋時代の青磁の人物像Wikimedia Commons Gary Todd from Xinzheng, China · CC0

この王朝を形づくったのは、家柄の力だった。官吏の登用は、地元の評判で人を九つの等級に分ける制度で行われていたが、評価する役を名門が握ったため、高い官職は代々の名家の子にしか回ってこなくなった。「上品に寒門なく、下品に勢族なし」と言われる。名門の貴族たちは実務を下に任せ、老荘の思想を語り合う清談や、詩と書と音楽を教養として競った。仏教もこの貴族社会に入り込み、廬山に住んだ僧の慧遠は、出家した者は王に礼をしなくてよいと論じた。

華北を失った代わりに、江南が育った。北からの移住者と技術で湿地が開かれ、長江下流は中国の穀倉への道を歩みはじめる。建康は六朝の都として栄え、書の王羲之、画の顧愷之、詩の陶淵明が現れた。王羲之は王導の一族の出で、353年の蘭亭序はこの貴族社会の雅な集まりから生まれた。

蘭亭序に関わる図版:Lanting rubbing1
蘭亭序Wikimedia Commons Public domain

東晋は420年、軍人の劉裕に位を譲って滅びる(劉裕の宋建国)。その後も宋・斉・梁・陳と南朝の王朝が続き、589年の隋の中国再統一まで、中国の南北は270年あまり分かれたままだった。経済と文化の重心が南へ移っていく長い流れは、この317年の亡命政権から始まっている。

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