則天武后の即位
概要
中国史上ただ一人、女性が自ら皇帝を名乗った。国号を周と改め、15年治める。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(1)
則天武后AD624年–AD705年12月16日 · 当人本文
690年の秋、唐の皇太后だった武照(則天武后)は、自分の息子の皇帝から位を譲られ、国号を唐から周に改めて、自ら皇帝となった。中国の長い歴史の中で、女性が正式に皇帝を名乗ったのは、この一度だけである。
武照は624年ごろ、唐の建国に協力した功臣の家に生まれた。父は木材の商いで財を成した人で、名門の貴族ではない。十代の半ばで唐の太宗の後宮に入ったが、目立った寵愛は受けなかった。649年に太宗が亡くなると、後宮の女性たちのならわしで寺に入れられて尼となる。だが太宗の子の高宗が、彼女を後宮に呼び戻した。高宗は太宗の生前から武照に心を寄せていたといわれる。

後宮に戻った武照は、高宗の寵愛を受けて皇后の王氏や蕭淑妃と争い、655年、二人を退けて皇后となった。生まれたばかりの自分の娘が亡くなったのを王皇后の仕業に見せかけた、という話が後の史書に見えるが、真偽は確かでない。皇后の座に就くと、立后に反対した重臣たちは遠ざけられ、太宗以来の功臣の長孫無忌も失脚して死に追いやられた。
高宗は持病に苦しみ、660年ごろから政務の多くを皇后に任せるようになった。朝廷では皇帝と皇后が並んで政治を聴き、二人は「二聖」と呼ばれた。683年に高宗が亡くなると、跡を継いだ息子の中宗を、わずか2か月ほどで廃し、その弟の睿宗を立てたが、政治は自分で執った。

これに反発して、684年には地方の官僚が反乱を起こし、688年には唐の皇族たちも兵を挙げた。どちらも短い期間で鎮圧された。武照は宮中に銅の投書箱を置いて密告を広く受け付け、来俊臣らの酷吏に反対派を厳しく取り調べさせた。多くの皇族と官僚が殺された。
そのうえで、彼女は女性が皇帝になる道筋を整えた。洛陽を「神都」と呼んで政治の中心とし、仏教を手厚く保護した。仏典の一つ『大雲経』に、女性が王となって国を治めるという予言があるという解釈が広められた。690年、各地から即位を求める請願が集められ、睿宗は自ら位を譲った。武照は「聖神皇帝」を名乗り、国号を周とした。周は、儒教が理想とする古代の王朝の名である。

皇帝としての武照は、人材を広く集めることに力を入れた。隋に始まった科挙(科挙の始まり)の合格者を増やし、名門の出でない者を積極的に取り立てた。皇帝自ら受験者を試したともいわれ、武官を選ぶ試験も始めた。宰相の狄仁傑をはじめ、後に玄宗の時代(玄宗)を支える姚崇や宋璟も、この時代に登用されている。自分には名門貴族の後ろ盾が無いからでもあったが、結果として唐の官僚制を強めることになった。
この時代の周には、日本からの使節も来ている。702年に出発した遣唐使の粟田真人は、「日本」という国号を名乗った最初の使節とされ、武照の宮廷でもてなされたと『続日本紀』は記す。日本では同じころ、持統天皇が政治を執っていた。
晩年の武照を悩ませたのは、跡継ぎの問題だった。武氏の甥に継がせれば周は続くが、自分の子でない者が、自分を祀ってくれる保証は無い。息子に継がせれば、国は唐に戻る。狄仁傑らの説得もあって、698年、廃した中宗を呼び戻して皇太子とした。705年の正月、病床の武照のもとに宰相と将軍たちが兵を率いて入り、寵臣の張兄弟を殺して、中宗への譲位を迫った。中宗は復位し、国号は唐に戻った。武照はその年の暮れに亡くなった。80歳前後だった。遺言により皇帝の号を去り、皇后として高宗の陵墓に合葬された。陵墓の前には、何も文字の刻まれていない石碑が立っている。
後の史書は、彼女を、夫の国を奪い、多くの人を殺した、淫らで残忍な女性として描いた。書いたのは、儒教の規範を持つ男性の史官たちである。女性が皇帝になったこと自体が、彼らには秩序の乱れだった。一方で、彼女の治世に大きな反乱は少なく、人口は増え、国は安定していたとして、その政治の力量を評価する見方も、近代以降強くなっている。評価の材料が、彼女を嫌った者たちの筆に多く拠っていることは、心に留めておく必要がある。