西夏文字の制定
概要
漢字に似て、漢字より画数の多い6000字を、皇帝の命で一度に作った。仏典と字書が訳され、20世紀に解読された。国が滅びて文字だけが残った例になる。
場所
38.49°N 106.23°E · 中国・寧夏回族自治区
関わった人(1)
李元昊AD1003年–AD1048年 · 命じた本文
11世紀の初め、中国の北西部、黄河が大きく湾曲するあたりから河西回廊にかけて、タングートと呼ばれる人々が勢力を広げていた。チベット系の言葉を話す人々で、唐の時代から中国の北西辺境に住み、宋と遼という二つの大国の間で、たくみに立場を変えながら力を蓄えていた。
その指導者李元昊は、父の代までの宋への従属をやめ、独立した国を作ろうとした。髪形を改めて剃髪させる命令を出し、官制を整え、宋とは違う独自の国の姿を打ち出していく。文字の制定も、その一つだった。タングートの言葉には、それまで文字が無かった。

李元昊は、学者の野利仁栄に命じて新しい文字を作らせた。1036年に公布され、国の文字として、公文書から教育まで使われることになった。2年後の1038年、李元昊は皇帝を名乗り、国号を大夏とした。宋の側からは西夏と呼ばれる(西夏)。文字の制定は、独立した国としての宣言の一部だった。
西夏文字は、見た目は漢字によく似ている。点や払いを組み合わせて四角い字を作る点は同じだが、漢字と同じ字は一つも無い。わざと漢字を避けて作ったと考えられている。字の数はおよそ6000で、ほとんどが画数の多い、込み入った形をしている。漢字の部首のように、意味を表す部分と音を表す部分を組み合わせて字を作る規則があり、ある字の一部と別の字の一部を合わせて新しい字を作る、という作り方が多い。
文字が作られると、まず仏典の翻訳が進められた。西夏は熱心な仏教国で、宋から大蔵経を何度も取り寄せ、国家の事業としてタングート語に訳した。法律や兵法の書、儒教の経典、辞書も作られた。西夏の言葉で書かれた詩やことわざの集もある。字書『文海』は、字の形と音と意味を説明したもので、漢字の字書の形式にならっている。
1190年には、骨勒茂才という人が『番漢合時掌中珠』という小さな対訳の辞書を編んだ。タングート語の単語を西夏文字で書き、その横に漢字で意味と発音を添え、逆に漢語の単語には西夏文字で発音を示した。タングート人が漢語を、漢人がタングート語を学ぶための手引きで、のちにこの一冊が、失われた言葉を読み解く鍵になる。
西夏は、宋や遼、のちには金と戦ったり和を結んだりしながら、およそ190年続いた。だが13世紀の初め、北からモンゴルが現れる。チンギス・ハンは何度も西夏を攻め、1227年、最後の遠征のさなかに自らは陣中で没したが、その直後に西夏は滅ぼされた(モンゴル帝国の拡大)。モンゴルの攻撃はきわめて苛烈で、都の多くの人々が殺されたと伝わる。
国が滅びたあとも、文字はしばらく生き延びた。元の時代には西夏文字で仏典が刊行され、北京郊外の居庸関の門の壁には、梵字やチベット文字、ウイグル文字、パスパ文字、漢字と並んで西夏文字の経文が刻まれている。明の時代の1502年に造られた、西夏文字の陀羅尼を刻んだ石柱も見つかっている。だがそのあと、読める者はいなくなった。
再び光が当たったのは、20世紀の初めのことだ。1908年から翌年にかけて、ロシアの探検家ピョートル・コズロフが、内モンゴルの砂漠に埋もれていた西夏の城の跡、カラホト(黒水城)を調査した。城外の仏塔の中から、おびただしい数の書物や仏画が見つかった。数千点に及ぶ文書はロシアへ運ばれ、その中に『番漢合時掌中珠』もあった。
解読には多くの学者が携わった。ロシアのニコライ・ネフスキーは、日本に長く滞在して研究を進め、西夏語の辞書の草稿をまとめたが、ソ連に帰国したのち、1937年に粛清で命を落とした。その業績は死後に再評価され、1962年に国の賞を贈られている。日本でも石濱純太郎や西田龍雄らが研究を重ね、西田は西夏語の音と文法の体系を大きく明らかにした。いまでは西夏文字の文献の多くが読めるようになり、ロシアのサンクトペテルブルクと中国の研究者を中心に研究が続いている。
国の文字として作られ、国とともに忘れられ、国が消えて700年近くたってから、砂の中の塔から甦った。西夏文字は、言葉を記すために一から設計された文字が、どのような運命をたどるかを示す例でもある。同じように国の意思で作られた文字には、のちの朝鮮のハングルや、モンゴルのパスパ文字がある。