孝文帝の洛陽遷都と漢化
概要
鮮卑の皇帝が、南征と称して軍を出し、洛陽で「帰らない」と言って都を移した。鮮卑語を禁じ、鮮卑の姓を漢姓に変え、自分も元氏になった。北方の民族が中国になっていく形の、いちばん徹底した例。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
関わった人(1)
孝文帝AD467年–AD499年 · 皇帝本文
北魏(北魏の建国)は、モンゴル高原の東から来た遊牧の民、鮮卑の拓跋氏による国だった。都は長城のすぐ内側の平城(いまの山西省大同)に置かれ、439年に北魏の華北統一を成し遂げる。平城の近くには、皇帝の姿を写したといわれる大仏が刻まれ(雲岡石窟の造営)、北魏の力を示した。だが平城は草原に近すぎた。冬は寒く、食糧は遠く南から運ばねばならず、黄河の流域の広い農地を治めるには北の端にありすぎた。
孝文帝は467年に生まれ、幼くして位に就いた。長く実権を握ったのは祖母の馮太后で、その時代に、土地を国が民に分け与えて税を取る均田制などの改革が始まっている。490年に馮太后が死ぬと、20代の若い皇帝は、さらに大きな改革に踏み出した。中国の古い都、洛陽への遷都である。

鮮卑の貴族たちは、故郷に近い平城を離れることを嫌った。そこで孝文帝は、493年、南の斉を攻めると称して、30万ともいわれる大軍を率いて南へ向かった。秋の長雨の中を進み、洛陽に着いても、なお南へ進むと言う。疲れた群臣が馬の前にひざまずいて止めると、帝は、これほどの大軍を出して何もせずに帰れようか、南征をやめるならここに都を移す、と答えた。群臣は戦争より遷都を選んだ。初めから、そこへ導くための南征だったとされる。494年、都は正式に洛陽へ移された。
洛陽に移ると、孝文帝は鮮卑の風俗を次々に改めた。朝廷では鮮卑の服を禁じ、漢人の衣冠を着せた。鮮卑の言葉も、30歳より若い官僚には朝廷で使うことを禁じた。496年には、鮮卑の複数の音から成る姓を、漢人風の一字の姓に改めさせる。皇帝の拓跋氏は元氏となり、孝文帝自らも元宏を名乗った。

改革を支えたのは、南朝の斉から亡命してきた漢人の貴族王粛のような人々だった。王粛は南朝の宮廷の礼や官制に通じ、孝文帝は彼を重く用いて、新しい都の儀礼と制度を整えさせた。孝文帝自身も幼いころから漢文の書を学び、詩文をよくしたと伝えられる。鮮卑の名家を漢人の名門の崔・盧・鄭・王などと同じ家格に並べ、皇族に漢人の名門の娘を娶らせた。洛陽で死んだ者は洛陽に葬り、平城へ帰して葬ることも禁じた。新しい都の南の伊水のほとりでは、岩山に仏を刻む龍門の石窟が始まり、唐の時代まで彫り継がれていく。
洛陽の町そのものも、漢や晋の時代の廃墟の上に新しく築き直された。のちに楊衒之が著した『洛陽伽藍記』は、最盛期の洛陽に1000を超える寺が立ち並んでいたと記している。草原の民の皇帝が築いた都が、仏教と漢人の文化の中心として輝いた。

反発は激しかった。皇太子の元恂は、夏の暑い洛陽を嫌って平城へ逃げようとし、廃されたうえ死を賜った。平城の鮮卑の貴族は反乱を企て、鎮められた。孝文帝はそれでも改革をやめず、南朝との戦いの陣中で病に倒れ、499年、33歳で死んだ。
改革は、北魏の中に深い溝を残した。洛陽の皇族や貴族が漢人の文化に染まって豊かに暮らす一方で、北の国境を守る六つの軍の拠点(六鎮)の鮮卑の兵は、かつての名誉ある地位を失い、取り残された。523年ごろ、六鎮の兵が反乱を起こし、その混乱の中で北魏は534年に東魏と西魏の分裂へ向かう。急ぎすぎた漢化が国を割った、と見ることもできる。
だが長い目で見れば、孝文帝の改革は、北の民と漢人が混ざり合って新しい支配層を作る道を開いた。六鎮の軍人の流れから出た家々が、のちの北周、隋(隋の中国再統一)、唐を建てる。隋の文帝の皇后独孤氏、唐の高祖の母の独孤氏、太宗の皇后長孫氏は、いずれも鮮卑の流れをくむ家の出である。鮮卑という名の民族はやがて史書から消えるが、それは滅びたのではなく、中国そのものの中に溶け込んだのだった。