人物

漢の武帝

Emperor Wu of Han
BC156年 – BC87年(享年69・推定)
前漢重要度 5

概要

匈奴と戦い、西域へ使者を送って交易路を開いた。儒学を官学とする。

所属

前漢

関わったできごと(4)

張騫の西域派遣BC138年 · 派遣南越の征服BC111年 · 攻めた楽浪郡の設置BC108年 · 命令大宛遠征(汗血馬)BC104年 · 求めた

本文

紀元前156年、前漢の景帝の子として生まれた。名は劉徹。母の王氏は、もともと身分の高くない出で、一度ほかの家に嫁いでいたともいわれる。皇太子になったのは7歳の頃で、はじめの皇太子が母とともに退けられ、代わりに立てられた。叔母の娘の陳氏を「金の家に住まわせたい」と言ったという「金屋に嬌を蔵す」の話は有名だが、後世の物語に出てくるもので、史実とは言えない。

武帝(劉徹)の肖像
武帝(劉徹)の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

紀元前141年、父の死により16歳で即位した。在位は54年に及ぶ。前半と後半で、まるで違う。

即位して数年は、祖母の竇太后が力を持っていた。竇太后は、何もしないことで世を治める黄老の思想を好み、若い皇帝が儒学者を用いようとするのを抑えた。紀元前135年に竇太后が死ぬと、武帝は自分の政治を始める。

漢の武帝の肖像
漢の武帝の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

儒学を官学とした。五経を教える博士を置き、儒学を修めた者を官吏に取り立てる道を開いた。董仲舒の建議によるとされるが、その時期や中身については、のちの記録による脚色も指摘されている。以後2000年、儒教が国家の学問になる。年ごとに元号を定めるやり方も、この時代に始まった。

前半は、拡張になる。漢は建国以来、北の匈奴に贈り物と皇女を送って和を保ってきた。武帝はこれを改め、攻勢に転じた。紀元前133年に匈奴の王を誘い込んで討つ計画が失敗すると、全面的な戦いになる。外戚の衛青と、その甥の霍去病を将として、草原の奥まで遠征させた。

跳ねる馬と騎馬人物の陶像(後漢時代)
跳ねる馬と騎馬人物の陶像(後漢時代)Wikimedia Commons ellenm1 · CC BY 2.0

衛青の河南奪回で黄河の湾曲部の南を取り戻し、紀元前121年の霍去病の河西遠征では、西の河西回廊から匈奴を追い払った。ここに敦煌などの郡が置かれ、のちのシルクロードの入口になる。紀元前119年の大遠征では、匈奴の本拠を砂漠の北へ押しやった。霍去病は20代の若さで死に、皇帝は自分の陵の近くに、祁連山をかたどった墓を作らせた。

張騫の西域派遣は、匈奴を挟み撃ちにする同盟相手を探す旅だった。張騫は途中で匈奴に捕らえられ、10年余り留め置かれて妻子までもうけたが、逃れて西へ進み、中央アジアの国々を見て帰った。同盟は成らなかったが、西方の国々の様子と、名馬や産物の話が漢にもたらされた。武帝はのちに、汗血馬と呼ばれる名馬を求めて大宛遠征(汗血馬)まで行わせている。

南では南越の征服、東では衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡の設置などの郡を置いた。漢の版図はここで大きく広がり、東アジアの国々が中国の王朝と向き合う形の始まりにもなった。

楽浪郡の設置に関わる図版:Early 4th century Lelang Commandery
楽浪郡の設置Wikimedia Commons Asieon · CC0

後半は、その代償が来る。遠征の費用で財政が破綻した。塩と鉄を国の専売にし、各地の産物を国が買い上げて運ぶ均輸法、物価の上下に合わせて売り買いする平準法で、商人の利益を国に吸い上げた。財産に重い税をかけ、隠した者は告発させた。商人あがりの桑弘羊がその中心にいた。

権力は皇帝一人に集まり、その周りは不安定になった。不老不死を求めて方士を重く用い、泰山で天と地を祀る封禅の儀式も行っている。匈奴に降った将軍の李陵をかばった歴史家の司馬遷は、怒りを買って宮刑に処された。司馬遷はその屈辱に耐えて『史記』を書き上げ、武帝の時代を同時代人の目で記録した。

孝子説話を描いた漆器の籠(後漢時代、楽浪郡の墓から出土)
孝子説話を描いた漆器の籠(後漢時代、楽浪郡の墓から出土)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

暦も改めた。紀元前104年に定めた太初暦で、一年の始まりを、いまの旧正月にあたる月に置いた。この区切りはその後の中国の暦に受け継がれ、東アジアの旧正月のもとになっている。宮廷では楽府という役所を設けて各地の歌謡を集めさせた。寵愛した李夫人の兄が皇帝の前で歌った、一度振り向けば城が傾き、二度振り向けば国が傾く、という歌は、「傾国」の語の由来として知られる。

紀元前91年、宮中で呪いの人形を使った呪詛が行われているという告発が広がった。巫蠱の獄と呼ばれる事件で、追い詰められた皇太子は挙兵し、敗れて自殺した。母の衛皇后も自ら命を絶っている。告発の多くはでっち上げで、のちに武帝は皇太子の無実を知って悔いた。

武帝が張騫を中央アジアへ派遣する場面(莫高窟の壁画)
武帝が張騫を中央アジアへ派遣する場面(莫高窟の壁画)Wikimedia Commons PHG · Public domain

晩年、輪台の詔で遠征をやめると自ら宣言した。西域の輪台に兵を置く案を退け、民を休ませるよう命じたものである。拡張した皇帝が、自分でそれを止めると書き残した。ただ、この詔が政策の大転換だったのかどうかには、異論を唱える研究者もいる。

紀元前87年、70歳近くで死んだ。後を継いだのは8歳の末子で、大臣の霍光が補佐した。その少し前、武帝は幼い皇帝の母を死に追いやっている。母が若くして権力を握ることを恐れたためと記録される。死の6年後、朝廷では塩鉄会議が開かれ、専売を続けるか、民に返すかが論じられた。武帝の政治の評価は、そのとき既に割れていた。後漢の班固は『漢書』で、その雄大な才と志をたたえつつ、祖父の文帝と父の景帝の倹約の政治を改めなければ、古の聖王にも劣らなかっただろうと惜しんでいる。版図を広げ、儒教の国家を作った皇帝であり、民を疲弊させた皇帝でもある。

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