呉の滅亡(晋の統一)
概要
王濬が蜀で造った楼船で長江を下り、呉が川に張った鉄の鎖を松明の筏で焼き切った。「千尋の鉄鎖、江底に沈む」。孫皓は石頭城で棺を担いで降った。黄巾から96年。三国が終わり、晋が一つにした。統一は37年しか続かなかった。
場所
32.06°N 118.80°E · 中国・江蘇省
関わった人(2)
司馬炎AD236年–AD290年 · 皇帝孫皓AD242年–AD284年 · 降った本文
280年3月、長江をくだってきた晋の大船団が呉の都建業(いまの南京)の石頭城に迫り、呉の皇帝孫皓は降伏した。魏・蜀・呉の三国が並び立った時代はここに終わり、司馬炎の晋が中国を一つにまとめた。184年の黄巾の乱から数えれば96年、220年の後漢の滅亡から数えれば60年ぶりの統一である。
三国のうち、最初に消えたのは蜀だった。263年、魏の軍が蜀に攻め込み、皇帝劉禅は降った(蜀の滅亡)。その魏も、実権を握っていた司馬氏に乗っ取られる。265年、司馬懿の孫の司馬炎が魏の皇帝から位を譲られて晋を建てた。残るは長江の南の呉だけになった。

呉は、孫策が江東を平定し、弟の孫権が国を固めた国である。孫権は208年の赤壁の戦いで曹操の大軍を退け、229年に皇帝を称した。長江という天然の堀と強い水軍に守られ、呉は半世紀にわたって北の大国と渡り合った。だが孫権の晩年から後継をめぐる争いが続き、264年に即位した孫皓は、はじめこそ名君の兆しを見せたものの、やがて酒宴にふけり、諫める臣下を殺し、人の目をえぐったり顔の皮を剥いだりする残酷な刑を行ったと伝えられる。宮殿の造営や遷都で民も疲れていた。
晋の朝廷では、呉を討つかどうかで意見が割れた。慎重論の中心は重臣の賈充で、長江を越える戦は危うい、と反対した。一方、荊州で呉と向き合っていた将軍羊祜は、早くから呉を討つべきだと説き、国境で呉の民をいたわって人心をつかんだ。羊祜は278年に死んだが、その後を継いだ杜預が出兵を強く求め、司馬炎はついに決断した。

その準備の要は、長江の上流にあった。益州(いまの四川)の長官だった王濬は、何年もかけて大量の軍船を造っていた。最大のものは船をつなぎ合わせて四方120歩もあり、2000人以上を乗せ、上に楼閣を建てて馬で駆け回れたという。造船で出た木くずが長江を流れくだり、下流の呉の建平太守吾彦がそれを拾って、晋が船を造っている、兵を増やして備えるべきだと孫皓に訴えたが、聞き入れられなかった。
279年11月、晋は六つの道から一斉に兵を出した。東から司馬伷、王渾、王戎、胡奮、杜預が長江北岸の各地を攻め、西から王濬の水軍が長江をくだる。兵は総勢20万を超えた。呉は長江の狭いところに鉄の鎖を張り渡し、水の中には長さ1丈あまりの鉄の錐を沈めて、船の底を突き破ろうと待ち構えていた。王濬はまず数十の大きな筏を先に流し、筏の上に鎧を着せた藁人形を立てた。錐は筏に刺さって抜けていった。鎖に対しては、麻の油を注いだ長さ10丈あまりの巨大な松明を船の前に掲げ、鎖に当てて焼き切った。唐の詩人劉禹錫は、のちにこの場面を「千尋の鉄鎖、江底に沈む」と詠んでいる。

280年2月、王濬は西陵、荊門、夷道、楽郷と、長江沿いの要地を次々に落とした。杜預は荊州の中心の江陵を取った。このとき、雨季が近いのでいったん兵を引いて冬を待つべきだという意見が出たが、杜預は退けた。いま我が軍の勢いはすでに振るい、たとえば竹を割るようなものだ。数節を割れば、あとは刃を迎えて自ずから裂けていく、と。勢いが止まらないことを言う「破竹の勢い」の言葉はここから生まれた。
東では王渾の軍が、呉の宰相張悌の率いる主力を長江の北で破った。張悌は逃げずに戦場で死んだ。呉にはもう大軍を出す力が無かった。3月15日、王濬の船団は風に乗って建業に着いた。孫皓は、自らの手を後ろに縛り、棺を車に載せて従え、死罪を覚悟して降伏した。古くから伝わる降伏の作法である。晋は呉の領土を受け取り、その戸籍には52万戸あまり、230万人の民と23万の兵が記されていた。年号は「太康」と改められた。

戦のあとには、手柄争いが起きた。長江の北にいた王渾は、自分の到着を待たずに王濬が建業に入ったと怒り、命令違反だと朝廷に訴えた。王濬も負けずに弁明し、二人の争いは長く尾を引いた。
孫皓は洛陽に送られ、帰命侯の位を与えられた。司馬炎が、この席を用意してあなたを長く待っていた、と言うと、孫皓は、私も南方で同じ席を用意して陛下をお待ちしていました、と答えたという。賈充が、南方では人の目をえぐり顔の皮を剥いだそうだが、それはどういう罪に対する刑か、と問うと、孫皓は、臣下でありながら主君を殺した者や、不忠の者に加える刑だ、と答えた。主君である魏の皇帝の殺害に加担した過去を持つ賈充は、黙り込んだと伝えられる。孫皓は284年、42歳で洛陽で死んだ。
呉の人々の多くは晋に仕えた。陸遜の孫にあたる陸機と陸雲の兄弟は、10年ほど故郷に引きこもったのち洛陽に出て、文才で名を上げた。だが亡国の臣として冷たい目でも見られ、陸機は晋の皇族どうしの内乱に巻き込まれて殺された。死に際に、故郷の華亭で聞いた鶴の声をもう一度聞きたいと言ったという。
統一は長く続かなかった。司馬炎の死後、皇族たちが争う八王の乱が起き、北方の諸民族が蜂起して、316年には長安が落ちた。翌317年、晋の皇族司馬睿は、かつての呉の都建業(建康と改名)で晋を立て直した(東晋の成立)。三国の統一から40年もたたないうちに、中国は再び南北に分かれたのである。呉が滅んだ後、晋の官人陳寿は三国の歴史を『三国志』にまとめた(陳寿『三国志』)。その物語はやがて民間の語り物となり、14世紀ごろに『三国志演義』として書き上げられて、東アジア中で読まれる物語になった。