鄭成功
概要
平戸生まれ。明の再興を掲げて海上で戦い、オランダを追い出して台湾に政権を置いた。
関わったできごと(1)
鄭成功の台湾AD1662年 · 当人本文
1624年8月27日、肥前の平戸で生まれた。父の鄭芝龍は、福建から東シナ海に乗り出した海商で、日本と中国、台湾、東南アジアを結ぶ交易と、海賊まがいの武力で財を築いた男だった。母は平戸の田川氏の娘マツ。幼名を福松という。平戸の千里ヶ浜には、母が浜辺で産気づき、岩にもたれて産んだという「児誕石」が残る。

7歳で中国へ渡った。そのころ父は明に帰順して水軍の将となり、福建の海を押さえていた。息子は父の本拠の安平で学問を仕込まれ、科挙を目指して南京の国子監に進み、名高い学者の銭謙益に学んだ。母は日本に残り、のちに中国へ渡って息子と暮らすようになった。
1644年、農民反乱の軍が北京を落とし、明の皇帝は自ら命を絶った。そこへ北から清の軍が入り、中国の支配を引き継いでいく(清の中国支配)。明の皇族たちは南で次々に皇帝を立て、清に抗った。1645年、福州で即位した隆武帝は、21歳の青年を気に入り、明の皇帝の姓である朱を与え、成功と名乗らせた。「国姓を賜った若殿」という意味の国姓爺の呼び名は、ここから来ている。ヨーロッパの人々が書き留めた「コシンガ」という名も、その音を写したものである。

明が滅びた後、その再興を掲げて戦い続けた。1646年、父の鄭芝龍は形勢を見て清に降った。息子は父を諫めたが聞き入れられなかった。清の軍は安平を襲い、母はその混乱の中で死んだ。自ら命を絶ったと伝えられる。成功は孔子の廟で儒者の衣を焼き、これからは武人として生きると誓った、という話が残る。父と袂を分かち、厦門と金門の島々を拠点に兵を集めた。
海の上に拠点を持ち、交易で得た資金で軍を養った。絹や陶磁器を日本や東南アジアへ運ぶ船団を組み、その利益で兵と船をそろえた。日本の江戸幕府にも何度も援軍を求めたが、幕府は応じなかった。南の永暦帝からは延平王の位を受け、明の正統を守る将として振る舞った。

1659年、大艦隊を率いて長江を遡り、南京を囲んだ。一時は江南の町々が次々に降ったが、勝ちに驕って包囲を長引かせたところを清の援軍に突かれ、大敗した。南京を攻めて失敗し、大陸の拠点を失う。清は沿岸の住民を内陸へ移す命令を出し、鄭氏の船団が陸から物資を得る道を断とうとした。
台湾へ向かった。台湾の南西部には、オランダ東インド会社(オランダ東インド会社の設立)が30年以上前から城を築き、砂糖や鹿皮の交易の拠点にしていた。1661年4月、成功は数百隻の船と2万を超える兵で台湾に渡り、浅瀬の水路を満ち潮に乗って越えて上陸した。オランダの小さな城はすぐに降ったが、本拠のゼーランディア城は持ちこたえた。オランダ東インド会社のゼーランディア城を9か月囲んで降伏させた。1662年2月、総督コイエットは城を明け渡し、オランダ人は台湾を去った。ヨーロッパの会社の拠点が、アジアの勢力の軍に正面から攻め落とされた例として、よく知られている(鄭成功の台湾)。

それから半年もたたない1662年6月23日、満37歳で急死した。病の原因ははっきりしない。前の年には、清に降っていた父が北京で処刑されていた。厦門を守る長男の鄭経が、弟の乳母と通じて子をもうけたと聞いて激怒し、息子を処刑せよと命じたが、部下たちが従わなかった。心労が重なっていたことは確かだった。同じころ、南の永暦帝も捕らえられて殺され、明の皇統は途絶えた。
政権は3代、20年余り続き、清に降る。鄭経は台湾に役所や学校を整え、大陸から人々を移して開墾を進めた。1683年、康熙帝の命を受けた清の水軍が澎湖諸島で鄭氏の艦隊を破り、孫の鄭克塽が降伏して、台湾は清の領土に組み込まれた。

台湾では開拓の祖として、中国では外国勢力を追い出した英雄として、日本では近松門左衛門の『国性爺合戦』の主人公として記憶されている。1715年に大坂で初演されたこの人形浄瑠璃は、日本人の母を持つ英雄の活躍を描いて17か月にわたって上演され続けた。台南には彼を祀る廟があり、平戸には生誕の地の碑が立つ。三つの土地がそれぞれの物語で、同じ一人を自分たちの英雄にしている。