鄧小平
概要
市場を導入して中国を世界の工場に変えた。同時に天安門では武力を用いた。
関わったできごと(4)
文化大革命1966年 · 失脚中国の改革開放AD1978年 · 主導天安門事件AD1989年6月4日 · 当時の最高実力者鄧小平の南巡講話AD1992年1月18日 · 回った本文
鄧小平は1904年8月22日、四川省広安の地主の家に生まれた。16歳のとき、働きながら学ぶ留学の制度でフランスに渡り、ルノーの工場などで働いた。勉強はほとんどできなかったが、そこで周恩来ら中国人の若者たちと出会い、共産主義の運動に加わる。1926年にはモスクワで学び、翌年帰国した。
帰国後は党の地下活動に入り、広西で武装蜂起を指導した。1930年代の党内の路線争いでは毛沢東を支持する側に立ち、そのために1933年に最初の失脚を経験している。長征に加わり、日中戦争と国共内戦では劉伯承とともに大軍を率いる政治委員として戦った。1949年の中華人民共和国の成立のあと、西南地方を治め、やがて北京に呼ばれて1956年には党の総書記になった。
毛沢東の大躍進政策で数千万人規模の餓死者が出たとされる後、鄧小平は劉少奇とともに経済の立て直しに当たった。農家が自分で耕作を請け負うことを一部で認め、生産を回復させようとした。「黄色い猫でも黒い猫でも、鼠を捕るのがよい猫だ」という四川のことわざを引いたのはこの頃で、のちに「白い猫でも黒い猫でも」の形で広まる。市場を使うかどうかは思想の問題ではない、という言い方になる。
この実務の姿勢が、毛沢東の怒りを買った。1966年に文化大革命が始まると、鄧小平は「資本主義の道を歩む実権派」として批判され、すべての職を追われた。これが二度目の失脚になる。江西省のトラクター工場で労働者として働かされた。北京大学の学生だった長男の鄧樸方は紅衛兵の迫害を受けて建物から転落し、下半身不随になっている。

1973年、周恩来の後押しで復帰し、病の周恩来に代わって国の実務を担った。だが1976年1月に周恩来が死に、4月に天安門広場で周を追悼する民衆が当局と衝突すると、その背後にいたとして三度目の失脚をした。同じ年の9月に毛沢東が死に、まもなく毛の妻江青ら「四人組」が逮捕される。鄧小平は翌1977年に再び戻った。毛沢東の時代に三度失脚し、三度戻ったことになる。
1978年12月の党の会議で、階級闘争から経済建設へ重点を移す方針が決まった。これが中国の改革開放の始まりとされる。最高権力者になったとき74歳だった。国家主席にも党主席にもならず、軍を指揮する中央軍事委員会の主席として実権を握り、表には胡耀邦や趙紫陽を立てて後ろに立つやり方を取った。

改革は農村から始まった。人民公社による集団農業が解体され、農家が土地を請け負って、決められた分を納めれば残りを自由に売れるようになった。生産は急に伸びた。1980年には広東省の深圳など沿海の4か所に経済特区が置かれ、外国の資本と技術を入れる窓口になった。1978年に日本を訪れた際には新幹線に乗り、日産の工場を見学している。
外交では、1979年にアメリカと国交を結んで訪米した。同じ年、ベトナムへの懲罰として軍事侵攻を命じている。香港の返還をイギリスと交渉する中で、返還後も50年間は資本主義の制度を残す「一国二制度」を打ち出し、1984年に合意した。人口を抑えるための一人っ子政策も、この時代に始まった。

改革は物価の高騰と役人の腐敗も生んだ。1989年春、胡耀邦の死をきっかけに、学生たちが天安門広場に集まり、腐敗の追放と政治の自由を求めた。運動は全国に広がり、広場の座り込みは1か月半に及んだ。鄧小平は戒厳令を出させ、6月4日にかけて軍が広場周辺に入って武力で排除した(天安門事件)。死者の数は政府の発表と各種の推計で大きく異なり、数百人から数千人以上まで幅がある。学生に同情的だった総書記の趙紫陽は失脚し、生涯軟禁された。
事件の後、党内では改革そのものを見直す声が強まった。1992年の初め、87歳の鄧小平は深圳など南方を回り、改革開放を後戻りさせるなと演説して回った(鄧小平の南巡講話)。これで流れが決まり、中国は市場経済へ大きく進む。

経済は開き、政治は開かない。この組み合わせが、その後の中国の形になる。改革開放以後、世界銀行などの推計で数億人が極度の貧困を脱した。一方で、党の指導に異を唱える自由は、天安門以後むしろ狭められた。
鄧小平は毛沢東の晩年を反面教師として、指導者の終身制をやめることを唱えた。幹部に定年を設け、自らも1989年に最後の公職である軍事委員会主席を江沢民に譲った。ただ、退いた後も最後まで最大の影響力を持ち続けたことは否めない。

1997年2月19日、北京で死んだ。92歳。香港の返還を見届けることはできず、その4か月余り前だった(香港返還)。遺体は解剖のために献体され、遺灰は遺言により海に撒かれた。毛沢東のような廟は作られていない。小柄な体で何度も倒されては起き上がったことから、中国では「不倒翁(起き上がりこぼし)」とも呼ばれる。