囲碁
概要
『論語』と『孟子』に既に名が出る。駒に種類がなく、石はすべて同じ。取ることより囲うことが目的で、勝敗は地の広さで決まる。琴棋書画のひとつとして、士大夫の教養に組み込まれた。7世紀に日本へ入り、正倉院に碁盤が残る。江戸幕府は本因坊など四家に禄を与え、御城碁を年中行事にした。碁の局面の数は、宇宙の原子の数より多い。2016年、アルファ碁が李世乭に勝った。
場所
34.62°N 112.45°E · 中国・河南省
本文
囲碁がいつどこで生まれたのかは、分かっていない。伝説では、古代中国の聖王の堯が、愚かな息子の丹朱を教えるために作ったとされる。晋の時代の『博物志』などに見える話で、もちろん史実とは言えない。
確かな記録として古いのは、春秋時代の歴史書『春秋左氏伝』の、紀元前548年の条である。政治の判断の危うさを、碁の石の打ち方になぞらえた言葉が出てくる。続いて『論語』の成立の陽貨篇では、孔子が、一日じゅう腹いっぱい食べて何も頭を使わないのは困ったものだ、博奕というものがあるではないか、それをするほうがまだましだ、と言っている。何もしないよりはまし、という程度の、あまり熱のない評価である。『孟子』には、碁は小さな技にすぎないが、心を集中させなければ上達しない、という言葉がある。紀元前四世紀ごろには、碁はすでに広く知られた遊びになっていた。

盤の大きさも時代とともに変わった。河北省の望都にある後漢の時代の墓からは、縦横十七本の線を引いた石の盤が見つかっている。いまのような縦横十九本、三百六十一の交点の盤が標準になったのは、隋から唐のころまでとみられる。奈良の正倉院には、紫檀の地に象牙などで細かな模様をはめ込んだ十九路の豪華な碁盤と、紅や紺に染めた象牙の碁石が伝わっている(正倉院の楽器)。
囲碁は、ほかの多くの盤上の遊びと根本から違っている。まず駒に種類がない。チェスにも将棋にも中国の象棋にも、駒ごとに決まった動き方があるが(チャトランガとチェスの伝播、将棋の持ち駒)、碁石はすべて同じで、黒か白かの違いしかない。一度置いた石は動かず、取られないかぎりそこに残る。そして相手の石を取ること自体が目的ではない。勝ち負けは、自分の石で囲んだ地の広さで決まる。石を取るのは、そのための手段の一つにすぎない。駒が減ったり動いたりするほかの遊びと違い、碁では盤が少しずつ石で埋まっていく。さらに、実力の差に応じて弱い側があらかじめ石を何個か置いて打つ置き碁の仕組みがあり、腕の違う者同士でも勝負になる。段や級による細かな格付けは、ここから生まれた。

単純な規則から生まれる局面の数は膨大である。三百六十一の交点それぞれが、黒、白、空の三通りをとるとすれば、組み合わせは三の三百六十一乗、十の百七十二乗ほどになる。規則のうえで実際に現れうる局面に限っても、およそ十の百七十乗あることが、2016年に計算で確かめられた。観測できる宇宙にある原子の数が十の八十乗ほどとされるから、比べものにならない。
中国では、碁は琴、書、画とともに「琴棋書画」と呼ばれ、士大夫が身につけるべき四つの教養の一つに数えられた。遊びであると同時に、人格を磨く芸とされたのである。この考え方は朝鮮や日本にも伝わった。
日本へは七世紀から八世紀にかけて、大陸との交流の中で伝わった。『日本書紀』には持統天皇の時代、689年に双六を禁じたという記事があるが、碁は禁じられていない。賭けごとになりやすい双六と違って、碁は教養と見なされていたらしい。平安時代の『枕草子』や『源氏物語』には、貴族が碁を打つ場面がたびたび描かれている。
戦国時代の京都に、日海という僧がいた。のちの本因坊算砂である。当時もっとも強い打ち手で、織田信長がその碁を見て「名人」とたたえたと伝えられる。これがその道の第一人者を名人と呼ぶ始まりだという。1582年、本能寺の変の前夜、本能寺で算砂ともう一人の打ち手が信長の前で対局したところ、互いの石の取り合いが終わらない三劫という珍しい形が生じて引き分けになり、その夜に変が起きたという話も広く知られている。ただし、この逸話を裏付ける同時代の記録は見つかっておらず、後世の創作ではないかとも言われている。

江戸幕府は、本因坊、井上、安井、林の四つの家元に禄を与えて碁を保護した。毎年冬には、将軍の前で家元の棋士たちが対局する御城碁が行われた。家元の頂点に立つ「名人碁所」の地位は一人だけで、その座をめぐって家元同士が激しく争った。こうして碁は職業になり、定石や布石の研究が代々積み重ねられた。十七世紀後半の本因坊道策(1645〜1702年)は、局所の戦いにこだわるそれまでの碁から、盤全体の効率を考える碁へと転換させ、のちに碁聖と呼ばれた。十九世紀の本因坊秀策(1829〜1862年)は、御城碁で十九戦して一度も負けなかった。1846年、井上幻庵因碩との対局で秀策が打った一手を見て、幻庵の耳が赤くなったと観戦していた医師が言ったという「耳赤の一手」の逸話が残る。秀策は、1990年代末から連載された漫画『ヒカルの碁』で主人公に取り憑く碁打ちの霊のモデルにもなり、若い世代が碁を始めるきっかけを作った。
明治維新で幕府の保護を失った家元は衰えたが、新聞社が棋戦を主催するようになり、1924年には棋士たちがまとまって日本棋院を作った。本因坊の名跡は、1930年代の後半、最後の世襲の本因坊である秀哉から日本棋院に譲られ、選手権の称号になった。昭和の碁界を席巻したのは、中国の福建省に生まれ、十四歳で日本へ渡った呉清源(1914〜2014年)である。木谷實とともに、型にとらわれない「新布石」を唱え、1930年代から50年代にかけて、一流の棋士たちとの十番碁にことごとく勝ち越した。日中が戦った時代を日本で中国出身の棋士として生きた彼の半生は、国籍や戦争に揺さぶられた複雑なものだった。

欧米へは、明治の日本を経て伝わった。1880年代、日本に滞在したドイツ人の化学者コルシェルトが碁を紹介する文章を書き、英語では日本語の呼び名から「ゴー」と呼ばれるようになった。二十世紀の後半になると、中国と韓国でも棋士の育成が盛んになり、1990年代からは韓国の棋士が国際棋戦を席巻する時代が続いた。
囲碁は長いあいだ、計算機には人間に勝てない遊びと考えられていた。局面が多すぎて読み切れないうえ、石の価値がすべて同じなので、局面の良し悪しを数字で測る方法が見つからなかったからである。チェスで計算機が世界王者に勝った1997年(計算機がチェスの王者に勝つ)の後も、囲碁の計算機はアマチュアの強豪にさえ及ばなかった。2000年代半ばに、先の展開を無作為に何万回も打ってみて勝率を見る方法が導入されて力が上がり、2016年3月、深層学習を組み合わせたアルファ碁が、韓国の李世乭九段を四勝一敗で破った(アルファ碁)。翌年には、人間の棋譜を使わず規則だけから自分自身との対局で学んだ後継の版が、それをさらに大きく上回った。

いま、プロの棋士は計算機を研究の相手にしている。計算機が示した手によって、何百年も正しいとされてきた定石の一部が書き換えられた。二千年以上前に、孔子が何もしないよりはましと言った遊びは、いまも人間と機械の双方が、その奥行きを探り続けている。