できごと

前秦の華北統一

Former Qin unifies the north
AD376年
重要度 4
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概要

氐族の苻堅が、漢人の王猛を宰相にして、五胡十六国の華北を一つにした。異民族を殺さず、降った王に位を与え、儒学を興した。7年後、淝水で南を攻めて崩れ、優遇した異民族の王たちが、それぞれ国を建てた。

場所

長安
34.27°N 108.95°E · 中国・陝西省西安

関わった人(1)

苻堅AD338年–AD385年 · 皇帝

本文

4世紀の初め、晋の王朝が内乱で弱まると、北方や西方から移り住んでいた匈奴、鮮卑、羯、氐、羌などの諸民族が次々に国を建てた。晋の皇族は江南へ逃れて東晋の成立を果たし、華北は、短命な国々が興っては滅びる五胡十六国の時代に入る。その中で、陝西の長安を都に、氐の苻氏が建てたのが前秦である。

357年、暴虐で知られた皇帝を倒して位に就いたのが、一族の若者苻堅だった。苻堅は幼いころから漢文の学問を好み、儒学の教養を身につけていた。苻堅が宰相として迎えたのが、漢人の王猛である。王猛は貧しい家の出で、かつて東晋の将軍桓温が北へ攻め入ったとき、粗末な衣で会いに行き、衣のしらみをつぶしながら天下の情勢を論じた、という逸話で知られる。

十六国時代の勢力図
十六国時代の勢力図Wikimedia Commons トムル · Public domain

王猛は、法を厳しく行い、苻堅の一族や氐の有力者であっても、罪を犯せば容赦なく罰した。一方で、農業を勧め、学校を興し、才のある者を民族を問わず登用した。長安の都は治安がよくなり、都から各地へ通じる道の両側には槐や柳が植えられ、旅人が安心して往来できたと伝えられる。

国が固まると、前秦は周りの国々を次々に呑み込んでいった。370年には、東の鮮卑の慕容氏の前燕を滅ぼす。前燕の名将の慕容垂は、それより前に一族の争いを逃れて前秦に亡命しており、苻堅はこれを厚く遇していた。373年には東晋から四川を奪い、376年には西の前涼と北の代を滅ぼして、ついに華北を一つにまとめた。西晋の滅亡から半世紀あまり、分裂していた華北が、再び一つの国のもとに置かれたのである。

建国時の前秦(ピンク)
建国時の前秦(ピンク)Wikimedia Commons トムル · Public domain

苻堅の統治の特徴は、降った相手を殺さないことにあった。滅ぼした国の王や貴族に位を与え、都に住まわせ、軍の指揮まで任せた。鮮卑や羌の人びとは長安の周りに移され、逆に氐の人びとは各地の守りのために散らばって置かれた。異なる民族を一つの国の中で共に生かそうとするこの寛大さは、苻堅の理想だったが、同時に大きな危うさを抱えていた。

文化の面でも、前秦は大きな足跡を残した。379年、苻堅は襄陽を攻め落とし、そこにいた高僧の道安を長安に迎えた。道安は経典の翻訳と整理を進め、中国の仏教の土台を築いた人物である。苻堅はさらに、西域の亀茲にいた名僧鳩摩羅什の評判を聞いて、将軍の呂光を遠征させた。呂光が羅什を得て戻る途中で前秦は崩れ、羅什が長安に入るのはずっと後になる(鳩摩羅什の長安入り)。

前秦(ピンク)と前燕
前秦(ピンク)と前燕Wikimedia Commons トムル · Public domain

375年、王猛は病で亡くなる。死の床で苻堅に、東晋は正統の王朝として人心を得ているから攻めてはならない、むしろ身近にいる鮮卑と羌こそが恐ろしい、と言い残したと伝えられる。しかし苻堅は、天下を一つにすることを望み、多くの臣下の反対を押し切って、383年、大軍を率いて南へ向かった。

383年の淝水の戦いで、前秦の大軍は、はるかに少ない東晋の軍に大敗する。動員の規模は誇張されて伝わっているが、敗走の混乱は大きく、風の音や鶴の鳴き声まで敵の追っ手と思って逃げた、という話が残る。「風声鶴唳」という言葉の由来である。

369年の十六国時代の勢力図
369年の十六国時代の勢力図Wikimedia Commons SY · CC BY 4.0

敗戦をきっかけに、苻堅が厚く遇した異民族の王たちは、それぞれ自立した。慕容垂は後燕を、羌の姚萇は後秦を建て、ほかにもいくつもの国が生まれる。385年、苻堅は姚萇に捕らえられ、殺された。華北は再び分裂し、やがて鮮卑の拓跋氏が建てた北魏(北魏の建国)が、半世紀ほどかけて華北を統一することになる。

苻堅は、異民族の君主でありながら儒学と仏教を重んじ、民族の違いを越えた国をめざした人物として、中国の歴史の中でも独特の評価を受けている。その寛大さが国を滅ぼしたとも、時代に先んじていたともいわれる。華北を一つにした七年の夢は、多くの民族が混じり合う中から、のちの隋や唐の時代へ続く北朝の流れが生まれる、その最初の試みだった。

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