袁世凱
概要
河南。科挙に2度落ちて軍へ。朝鮮で12年(甲申政変を潰した)。新建陸軍(北洋軍)。戊戌の変法で光緒帝を裏切った、と言われる。李鴻章のあと直隷総督。辛亥革命で清に呼び戻され、清と革命派の両方を脅して、清を退位させ、自分が大総統。宋教仁を暗殺したと言われる。皇帝。83日。「竊国大盗」。北洋軍閥は彼の部下たち。
関わったできごと(2)
辛亥革命AD1911年10月10日 · 清を退位させた袁世凱の帝制AD1915年12月12日 · 皇帝を宣言本文
袁世凱は、1859年9月16日、清の河南省項城の、官僚を多く出した地主の家に生まれた。一族には、太平天国や捻軍との戦いで功を立てた人々がいた。若いころの彼は、学問よりも乗馬や武芸を好み、官僚になるための科挙の地方の試験に2度落ちた。そのとき、大丈夫たる者は戦場で功を立てるべきで、筆と硯の間でこせこせしていられるか、と言って書物を焼いたと伝えられる。1881年、彼は父の旧友で、李鴻章の淮軍の将軍だった呉長慶の幕下に入った。

翌1882年、朝鮮で兵士の反乱が起きると(壬午軍乱)、呉長慶の軍は朝鮮に送られ、袁もこれに従った。彼は反乱の鎮圧と朝鮮軍の訓練で頭角を現した。1884年、日本の支援を受けた金玉均らの開化派が、王宮を占拠して政権を握ろうとした甲申政変では、25歳の袁が清の兵を率いて王宮に攻め入り、日本の公使館の兵を退けて、政変を3日で潰した。李鴻章は彼を高く買い、翌年、朝鮮に駐在する清の代表に任じた。それから9年あまり、袁は漢城(いまのソウル)で、朝鮮の宮廷の人事や外交に口を出し、朝鮮が独自に外国と結ぶことを妨げて、総督のように振る舞った。朝鮮を巡る日本と清の対立が戦争に向かう直前の1894年、彼は帰国した。
日清戦争(日清戦争)で清の旧式の軍が日本に完敗すると、近代的な軍隊を一から作り直す必要が誰の目にも明らかになった。1895年、袁は天津の郊外の小站で、ドイツ式の訓練と装備による新しい軍「新建陸軍」の育成を任された。7000人ほどで始まったこの軍が、のちの北洋軍の母体になる。段祺瑞、馮国璋、曹錕ら、のちに中国を分け合って争う軍閥の頭領たちは、みなここで袁の部下として育った。兵の忠誠は、国家よりも、給料と出世を与えてくれる袁個人に向けられていた。

1898年、若い光緒帝は、康有為らを登用して政治の大改革に乗り出した(戊戌の変法)。だが、実権を握る西太后(西太后)と保守派の反発で、改革派は追い詰められた。改革派の譚嗣同は、夜ひそかに袁を訪ね、兵を挙げて西太后の側近の栄禄を討ち、西太后を押さえてほしいと頼んだ。袁は引き受けるそぶりを見せたが、天津に戻ると栄禄にこれを告げたとされる。まもなく西太后が実権を取り戻し、光緒帝は幽閉され、譚嗣同ら6人が処刑された。袁が裏切ったという見方は広く信じられているが、袁自身が残した記録には、彼が報告する前にすでに政変は始まっていたと書かれており、どこまで彼の密告が決め手になったかは議論がある。
1899年に山東の巡撫になると、彼は外国人とキリスト教徒を襲う義和団を厳しく取り締まり、山東から追い出した(義和団の乱)。追われた義和団は北京へ向かい、翌年、列強の連合軍が北京を占領する事態になったが、袁は山東を守り抜き、列強の信頼を得た。1901年、李鴻章が亡くなると、袁は後を継いで、都を守る直隷総督と北洋大臣になった。42歳だった。彼は北洋軍を6つの師団に増強し、近代的な警察を作り、天津に学校や工場を興した。1905年には、千年以上続いた科挙を廃止するよう、張之洞らとともに上奏し、それが実現した。清朝の最後の近代化の改革は、多くが彼の手で進められた。

1908年、光緒帝と西太后が1日違いで相次いで亡くなり、幼い宣統帝(溥儀)が即位すると、摂政になった帝の父の醇親王は、兄の光緒帝を裏切った男として袁を憎んでいた。翌年1月、袁は「足の病」を理由に一切の職を解かれ、河南の彰徳に引きこもった。彼は蓑と笠をつけて舟で釣りをする自分の写真を撮らせ、世の中から身を引いたことを示した。だが北洋軍の将軍たちとの連絡は絶やさなかった。
1911年10月10日、武昌で革命軍が蜂起すると(辛亥革命)、南の省が次々に清からの独立を宣言した。北洋軍は袁の命令でしか動かない。清朝は彼を呼び戻すほかなく、袁は内閣総理大臣になって全権を握った。北洋軍は漢口と漢陽を奪い返したが、袁は対岸の武昌を攻め落とさず、革命派との和議に入った。彼は清朝に向かっては、共和を受け入れて退位しなければ、皇族は革命派に皆殺しにされると説き、革命派に向かっては、清を退位させる代わりに自分を大総統にせよと迫った。南京で臨時大総統になっていた孫文(孫文)は、北洋軍と戦う力が無いことを知っていた。1912年2月12日、宣統帝は退位し、二千年あまり続いた皇帝の制度が終わった。袁は臨時大総統に選ばれた。孫文らは袁を北京から引き離そうと、南京で就任するよう求めたが、北京で兵の騒乱が起きると、袁はそれを口実に北京にとどまった。この騒乱は袁が仕組んだものだと疑われている。

1913年の最初の国会の選挙では、宋教仁の率いる国民党が大勝した。3月20日、議院内閣を作ろうとしていた宋教仁は、上海の駅で撃たれ、2日後に亡くなった。暗殺を命じたのは袁かその側近だとみられている。袁は列強の銀行団から大借款を得て軍備を固め、7月に国民党系の勢力が起こした第二革命を、わずか2か月ほどで鎮圧した。正式の大総統になった袁は、国民党を解散させ、1914年には国会そのものを停止して、大総統に権力を集める新しい憲法を作った。
1915年1月、日本は袁の政府に二十一か条の要求を突きつけ、5月、袁はその大部分を受け入れた。受け入れた5月9日は、のちに国恥の日と呼ばれる(その怒りはやがて五四運動につながる)。同じ年の末、袁は各地の代表に推戴されたという形をとって、自ら皇帝になることを決め、翌年の年号を洪憲と定めた(袁世凱の帝制)。帝制を最も熱心に望んだのは、皇太子の座を狙う長男の袁克定だったとされ、彼は帝制を支持する記事ばかりを載せた偽の新聞を作って父に読ませた、という話が袁の娘の回想に残る。だが雲南で蔡鍔らが帝制に反対して兵を挙げると、南の省が次々に呼応し、北洋軍の将軍たちも離れていった。1916年3月、袁は帝制を取り消した。皇帝の位にあったのは83日ほどだった。失意の中、袁は病に倒れ、6月6日、56歳で亡くなった。

袁の死後、彼という重しを失った北洋軍の将軍たちは、各地で軍閥となって争い、中国は10年あまりの分裂の時代に入った。彼には17人の息子と15人の娘がいたとされる。中国では長く、国を盗んだ大泥棒「竊国大盗」と呼ばれ、教科書の悪役だった。近年は、清末の近代化を担い、統一を保とうとした現実的な政治家として見直す研究も出ている。故郷に近い河南の安陽に築かれた彼の墓は、文化大革命で荒らされたが、いまは修復されて公開されている。