概要
河南。科挙に2度落ちて軍へ。朝鮮で12年(甲申政変を潰した)。新建陸軍(北洋軍)。戊戌の変法で光緒帝を裏切った、と言われる。李鴻章のあと直隷総督。辛亥革命で清に呼び戻され、清と革命派の両方を脅して、清を退位させ、自分が大総統。宋教仁を暗殺したと言われる。皇帝。83日。「竊国大盗」。北洋軍閥は彼の部下たち。
関わったできごと(2)
辛亥革命AD1911年10月10日 · 清を退位させた袁世凱の帝制AD1915年12月12日 · 皇帝を宣言本文
1859年、河南の項城。官僚の家。科挙に2度落ちた(1876年、1879年)。「大丈夫、当に効を疆場に立てるべし。安んぞ能く筆硯の間に齷齪せんや」(と言った、と伝える)。1881年、淮軍の呉長慶の幕僚。1882年、朝鮮へ。壬午軍乱。1884年、甲申政変で日本の側の開化派を潰した(25歳)。1885〜94年、「駐紮朝鮮総理交渉通商事宜」。朝鮮の総督のように振る舞った。日清戦争の直前に帰った。
1895年、天津の小站で新建陸軍(7000人。ドイツ式。段祺瑞、馮国璋、王士珍、曹錕)。北洋軍。1898年、戊戌の変法。譚嗣同が夜、袁を訪ねて「西太后を囲め」と頼み、袁は栄禄に報告した(と言われる。袁の日記は「報告する前に政変が起きた」)。光緒帝は幽閉され、6人が斬られた。1899年、山東巡撫。義和団を山東から追い出した(北へ、北京へ)。1901年、李鴻章が死んで、直隷総督・北洋大臣。42歳。北洋六鎮、警察、天津の近代化、京張鉄道、科挙の廃止(1905年、彼が上奏した)。1907年、軍機大臣。1908年、光緒帝と西太后が続けて死んだ。光緒帝の弟の載灃が摂政。袁を「足の病気」で罷免した(1909年1月)。河南の彰徳で3年、釣りをした(写真を撮って配った)。
1911年10月10日、武昌。清は彼を呼び戻した。11月、内閣総理大臣。北洋軍で漢口と漢陽を取り、武昌を取らなかった。革命派と交渉した(唐紹儀と伍廷芳、上海)。清の側には「共和にしなければ革命派に殺される」、革命派には「清を退位させれば大総統に」。1912年2月12日、宣統帝退位。2月15日、南京の臨時参議院が袁を臨時大総統に。孫文は南京に来いと言い、袁は北京で兵に「暴動」を起こさせて、北京にとどまった。
1913年3月20日、宋教仁。7月、第二革命。11月、国民党解散。1914年、国会解散。1915年、二十一か条、帝制。1916年6月6日、死んだ。
息子17人、娘15人。長男の袁克定が帝制を最も望んだ(皇太子になるつもりで、父のために偽の『順天時報』を作って、帝制を支持する世論があると信じさせた、と伝える)。
「竊国大盗」。中国の教科書で、100年、悪役。2010年代、「近代化を進めた」「共和は中国に早すぎた、と彼は思った」と見直す本。彼の墓(袁林、安陽)は文革で荒らされて、いまは公園。