人物

周恩来

Zhou Enlai
AD1898年3月5日 – AD1976年1月8日(享年77)
中華人民共和国重要度 4

概要

建国から死まで首相を務めた。文化大革命のさなかも実務を回し、米中の接近を用意する。

関わったできごと(6)

長征AD1934年10月16日 · 同行西安事件AD1936年12月12日 · 交渉した中華人民共和国の成立AD1949年10月1日 · 初代首相バンドン会議AD1955年 · 中国側文化大革命1966年 · 行き過ぎを抑えようとしたニクソン訪中AD1972年2月21日 · 迎えた

本文

周恩来は1898年3月5日、江蘇省の淮安に生まれた。家は代々地方官を出した家柄だったが、すでに傾いていた。幼くして子のない叔父の養子となり、のちに東北地方の伯父のもとで新式の学校に通った。天津の南開学校を卒業すると、1917年に日本へ渡り、東京で予備校に通いながら大学進学を目指した。受験は失敗したが、この間に河上肇らの著作を通じてマルクス主義に触れたとされる。京都の嵐山には、彼が日本を去る直前に詠んだ詩の碑が立っている。

1919年に帰国すると、五四運動の渦中で天津の学生運動を率い、逮捕された。翌年、働きながら学ぶ留学生としてフランスへ渡り、ヨーロッパで中国共産党の組織づくりに加わった。のちに鄧小平もこの留学生の一人だった。1924年に帰国すると、国民党と共産党が手を結んでいた時代に、広州の黄埔軍官学校の政治部主任となった。校長は蒋介石である。

五四運動に関わる図版:Chinese protestors march against the Treaty of Versailles (May 4, 1919)
五四運動Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1927年、蒋介石が上海で共産党員を弾圧すると、周恩来は武装蜂起を指揮して失敗し、地下に潜った。党内では長く軍事の責任者を務め、一時は毛沢東より上の地位にあった。だが1935年、国民党の包囲を逃れる長征の途中に開かれた遵義会議で、彼は毛沢東の指導を支持する側に回った。以後40年、周恩来は毛沢東の下で、二番手の地位を守り続けることになる。

1936年、東北軍の張学良が蒋介石を監禁した西安事件では、共産党の代表として西安に乗り込み、蒋介石の釈放と引き換えに内戦を止め、共に日本と戦う約束を取りつける交渉に当たった。日中戦争の間は、国民政府の臨時の首都だった重慶に駐在し、各国の外交官や記者と交わった。物腰が柔らかく、相手の話をよく聞く彼の人柄は、多くの外国人に強い印象を残した。

西安事件に関わる図版:Zhang Xueliang, Yang Hucheng and Chiang Kai-shek
西安事件Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1949年、中華人民共和国が成立すると、周恩来は首相(はじめは政務院総理、のち国務院総理)となり、外相も兼ねた。彼は死ぬまで27年間、首相の座にあった。外交では、1954年にインドのジャワハルラール・ネルーと、領土の尊重や内政不干渉など平和五原則を確認し、同じ年のジュネーヴ会議ではインドシナの停戦の交渉に加わった。1955年のバンドン会議では、共産中国を警戒する国々を前に、違いを残したまま共通点を探そうと呼びかけ、会議の空気を和らげた。

国内では、毛沢東が始めた運動の後始末を引き受けることが多かった。大躍進の失敗で数千万人ともいわれる餓死者が出た後には、経済の立て直しに当たった。1966年に文化大革命が始まると、紅衛兵の暴力が国中を覆う中で、政府の仕事を回し続けた。攻撃された幹部や知識人の一部を、自分の手元にかくまったり、名簿から外したりして守ったとされる。一方で、毛沢東の指示には決して逆らわず、劉少奇の失脚をはじめとする粛清の文書にも署名した。自分の養女が迫害されて死んだときにも、救うことはなかったといわれる。周恩来をどう評価するかが難しいのは、この両面があるためである。

文化大革命に関わる図版:Mao Zedong 19661001
文化大革命Wikimedia Commons 孟昭瑞 · Public domain

1971年、毛沢東の後継者とされていた林彪が国外へ逃れる途中に死ぬ事件が起き、文化大革命の行き詰まりは誰の目にも明らかになった。この年、周恩来はアメリカのキッシンジャーの秘密訪問を北京で迎え、翌1972年のニクソン訪中を実現させた。同じ年の秋には日本の田中角栄首相を迎え、日中国交正常化をまとめた。

その1972年に、周恩来はがんと診断された。毛沢東の許可が無ければ手術も十分に受けられなかったとされる。1975年、病床から全国人民代表大会に出て、農業・工業・国防・科学技術の四つの近代化を掲げた。この路線を引き継いだのが、周恩来が復権を後押しした鄧小平である。

周恩来(1972年)
周恩来(1972年)Wikimedia Commons President (1969-1974 : Nixon). White House Photo Office. 1969-1974; General Services Administration. National Archives a · Public domain

1976年1月8日、周恩来は77歳で死んだ。遺言により遺体は火葬され、遺灰は飛行機から国土に撒かれた。毛沢東の妻の江青ら文化大革命を進めた指導者たちは追悼を抑えようとした。4月の清明節、北京の天安門広場には、彼を悼む花輪と詩を掲げた市民が数十万人集まった。花輪が撤去されると抗議は衝突に変わり、当局はこれを反革命事件として鎮圧した。第一次天安門事件と呼ばれ、鄧小平はその責任を負わされて再び失脚した。だが同じ年の秋に毛沢東が死ぬと、事件の評価は覆った。周恩来は今も中国で最も敬愛される指導者の一人であり、その人気は、彼が守れなかったものへの複雑な思いとともにある。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1898年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →